2006年06月29日

行列のできるラーメン店

由香
 洋服屋さんとラーメン店がひとつの建物に入っていますね。

 もともとは洋服の仕立てをしていた店舗だったが,最近息子さんがラーメン店を開業した。するとたいへんな行列ができるようになってしまった。毎日夕方になると50人くらいは並んでいた。店内は15人くらいしか入れないから、かなりみんな待っているようだよ。朝は開店の1時間前から、待っている人がいる。
由香
 なんでそんなに並ぶんですかね。よっぽどおいしいんでしょうね。

 即席ラーメンで有名な明星食品が、新製品を開発するときに、この店からスープの指導を受けた、ということが新聞に出ていた。麺も2人前くらい入っていて、ボリュームがあるよ。
由香
 どんなスープなのかしら。

 日によって味が変わるらしい。月,火はこの店の基本になるスープ,水曜の午前は動物系(豚,鶏)に主眼があるスープ(午後は休み)、木,金は魚介類に重点のあるスープ、土曜、祝祭日はファミリー向けのスープと変化する。変わった素材が手に入ると、その日だけの特別スープが出てくることもある。もちろん麺にも、こだわっている。
由香
 またまた、すごいところがあるんですね、津田沼には。入ってみたいけれど,津田沼街道の旅は始まったばかりだから,帰りに寄りましょうよ。ところで、すぐ前に河合塾がありますが、津田沼駅の前にも、駿台予備校、代々木ゼミ、大原簿記、栄光ゼミナールの看板が見えましたが,このあたりは予備校だらけですね。
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2006年06月28日

習志野市のスーパー競争


 歴史の話をしているのだから、現実の道路から離れて行くのは、やむをえない。今は千葉工大の正門前を歩いているが,道路の反対側、右側の大きな建物は、平成17年の11月までダイエーが入っていたところだ。ダイエー津田沼店は、90年代の初めの頃まで、ダイエーの中では日本で1、2を争う売上を誇っていた。駐車場に入るにも、かなり待たされたんだ。ところが、あっという間に、誰もこなくなってしまった。
由香
 どうしてですか。遠藤君蔵みたいに蒸発したんですか。

 東京湾を埋め立てた地域は、バブル崩壊後は、進出企業がなく,閑散としていた。ところが、90年代の後半になると、大型スーパーが次々と進出した。カルフール、コストコ、ミスターマックスが開店した。待たなくても駐車場に入れて,駐車料金もただ、そのうえ店は広いし、いろんなテナントが入っている。04年にはジャスコ津田沼店も開店した。そもそも昔からイトーヨカドーもある。
由香
 それじゃダイエーなんて競争になりませんね。

 今は車の時代になったから,自宅の近所でなくても、行けるようになった。スーパー同士の競争は激しさを増している。進出したばかりのフランスのカルフールは、もうイオンに経営が変わったし,平成18年4月に、さらに大きいスーパービバホームとスーパービバモールが習志野市内に開店した。
由香
 またまた競争について行けない店が出てきそうですね。

 ダイエー津田沼店が閉店したというニュースを聞いて,地元以外の人は,津田沼がさびれてきたと勘違いした人が多かった。ところが、今は都心回帰現象で,習志野市内はアパートやマンションが次々と建っている。のどかな風景が残っていた地域が、次々ミニ開発されて、窮屈な街になりつつあるぐらいだ。
由香
 乱開発やミニ開発を規制してほしいですね。のどかな風景を残しておいてほしいですね。

 なんとかしてほしいね。千葉工大を過ぎると必勝軒がある。

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2006年06月27日

旧鴇田家は重文級の古民家


 鴇田(ときた)家の建物は、享保12年(1827)から翌年にかけて建築されている。そのことが、大工手間日記に書かれていた。誰がどういう仕事をして、いくら賃金をもらったとか。大工の出勤簿のようなものまでそろっていて、民家建築の記録としては、最も詳細なもののひとつだよ。
由香
 古さのランキングとしては何番目ですか。

 房総半島南端に近い,石堂寺(いしどうじ)に移築保存されている旧尾形家が、享保13年という墨書きがあったことで、国の重要文化財に指定された。この尾形家が、県内では旧大沢家についで第2位だ。
由香
 それじゃ、鴇田家も同じ年代なんだから重文に指定されてもいいんじゃないですか。重文級と言うのは、そういう意味なんでしょ。

 しかし、さっきも言ったように,重文の指定は予算や,発見された時期によって変わってくる。もし、鴇田家の建築記録が、もうすこし早く発見されていれば、重文に指定されていただろうね。それにしても享保13年の完成は、習志野市に、千葉県の古さナンバーワンとナンバーツーがあることになるから、また関東全域で見ても、鴇田家は7番目くらいの古さだから,習志野市の古民家が、どれだけすごいかわかるだろう。
由香
 どうして、鴇田家の建築記録の発見が遅れたんですか。

 鴇田家のある実籾地区は、江戸時代は純粋な農村だった。鴇田家は代々の名主で,その蔵には膨大な量の古文書類が収納されていた。それを分類しているうちに発見されたんだが,あまりにも多くて,発見と解読までに時間がかかってしまった。そのうちに各県4棟か5棟の重文指定の時期が過ぎてしまったということだろうね。最近のものより,江戸時代のほうが、記録がたくさん残っているからね。
由香
 それはどういうことですか。新しい記録が少なくて,古い記録のほうがたくさん残っているって。おかしいじゃないですか。

 古いといっても,江戸時代の記録のことだよ。江戸時代は、身分制が厳格で,名主の地位は世襲で固定していた。鴇田家は実籾の名主として、何百年も続いたから記録が残った。名主は今で言えば村長のような存在で,名主の家は村役場,蔵は住民記録保管庫みたいなものだった。だから、鴇田家の蔵から膨大な量の記録が発見されたんだ。日本中どこでも同じようなものだよ。
由香
 新しいものはどうして少ないんですか。

 明治新政府になってからは、県制度、郡制度、町村制が何度も改編された。そのたびに記録が破棄されてきた。とくに第2次大戦が終わりかかったころ、アメリカ軍が進駐してきて,記録を見られると責任を追求されるかもしれないという話になって,大量に記録が抹殺されたといわれている。
由香
 そうすると、昭和初期や大正時代の記録のほうが貴重だというんですか。

 その通りだよ。昭和初期のものが家にあったら,ぜひ教育委員会に見せてほしいね。
由香
 普通は昭和や大正では、新しいと思うから処分するかもしれませんね。

 たとえば、明治から大正にかけて郡制度があった。このあたりは千葉郡で、千葉市に郡議会もあった。ところが、郡議会の議事録はほとんど全く残っていない。
由香
 津田沼との関係ではどうですか。

 津田沼町時代の議会の議事録などはほとんど残っていない。津田沼小学校の先生が記録した、津田沼町郷土教育資料という本しか、当時のことが書かれたものがないんだ。また、津田沼地区は江戸時代は久々田村だったが、名主を交代制でやったらしくて,あまり記録が残ってないんだ。
由香
 担当者がころころ代わると責任の所在がはっきりしなくなるという、現代にも通じる話ですね。ところで、千葉工大の横をあるいているところから全く進みませんね。

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2006年06月26日

廣瀬家は江戸時代の大工の自宅


 平成15年の7月に、津田沼の廣瀬さんのお宅の主屋(おもや)、蔵、倉庫、井戸上屋の4棟が国の登録有形文化財建造物になったんだが・・・、
由香
 あの銚子石の外流しのあるおうちですか。

 そうだ。その廣瀬家の主屋が、江戸時代の大工の自宅だと言われている。
由香
 大工の自宅は、ほかでは残っていないんですか。

 江戸時代の大工の自宅という伝承が残っている家で、文化財になっているのはこれ1棟じゃないかな。もちろん、日本中の自治体の、文化財目録を調べたわけじゃないので、確定はできないが。
由香
 何か有名な建物を建てた大工なんですか。

 中山法華経寺の文化10年(1813)4月落成の、初代仁王門を建てた大工だと伝承されている。この仁王門は、山門、赤門とも呼ばれるので、三門と書かれることもある。
由香
 中山法華経寺といえば、日蓮上人が最初に建てた寺で、日蓮自筆の国宝の文章や、重文の建物がたくさんあるお寺でしょう。

 現在4棟の建物が、国の重文になっている。もしこの仁王門が残っていたら、重文になっていたかもしれないね。
由香
 今はないんですか。

 新政府軍と幕府軍が戦った、1868年の戊辰戦争(市川・舟橋戦争)で、火を放たれて焼失してしまった。今建っている仁王門は、大正時代に建てられた三代目だよ。
由香
 またまたすごいじゃないですか。重文級の仁王門を建てた大工の自宅が、津田沼にあるなんて。当然、自宅も自分で建てたんでしょうね。

 廣瀬家の伝承では、先祖の廣瀬弥兵衛(1782−1840推定)は、中山法華経寺の三門を建てた腕の良い大工で、自宅も弥兵衛自身が建てたということになっている。
由香
 たしか、今建っている仁王門もかなり大きな門ですよね。廣瀬弥兵衛が建てたといわれる門も、こんなに大きかったのかしら。今となってはわかりませんね。

 小さいが、絵は残っている。
由香
 絵があるんですか。どこにあるんですか。

 天保6年(1836)に、有名な江戸名所図会が刊行されている。その中の「妙法華経寺」という題名の絵の中に描かれている。寺全体を上空から俯瞰(ふかん)した絵で、A4程度の大きさだから、門自体は小さく描かれている。
由香
 その絵から、どの程度の大きさか想像できますか。

 江戸名所図会は、細部までかなり正確に描かれているので、弥兵衛が建てたという仁王門が、現在の門と同じ程度の門であったことが推定できるよ。
由香
 廣瀬家の主屋は見学できるんですか。

 廣瀬家は現在も子孫の方々が住んでいるので、見学はできない。主屋は敷地の内部にあるので、外からは全く見えないんだ。ただ、外観は、江戸時代の建物はほとんどみな同じだから、どうということはないよ。内部は、江戸時代末期の民家の特徴である、太い大黒柱、太い指し鴨居、床の間の原型と言われる押板、畳の下にはいろりもあるんで、もし、畳をはずして、板の間にしてしまえば、そのまま文化文政時代の久々田村に戻ったような雰囲気になるよ。
由香
 江戸時代の家を見学したければ、習志野市には、旧大沢家と旧鴇田(ときた)家が移築保存されているということですね。

 両方とも廣瀬家よりもずっと古い建物で、大黒柱に太い木を使う以前の建物だから、よく見てほしいね。囲炉裏も押板もある。廣瀬家との違いは、江戸末期になると、大黒柱という太い柱が登場するのと、その上に乗る鴨居がものすごく太くなることなんだ。
由香
 まず、古民家の特徴をよく勉強してから、大沢・鴇田家を見学しましょう。

 それに、鴇田家も重文級の建物なんだ。
由香
 えーっ。またまた重文級ですか。

 



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2006年06月25日

古民家の価値基準が変化した


 昭和40年代から古民家の保存に取り組んできて、国、県、市町村レベルまで含め、数千棟の建物が保存されてきた。しかし、振り返ってみるとそのほとんどが、武士、豪農、豪商の建物だった。
由香
 金持ちが、質の良い材料を使い、腕の良い職人をたくさん集めて立派な家を建てれば、長持ちしますよ。庶民の家は粗末なものだったでしょう。

 つまり、古さだけを基準にすると、庄屋、名主といわれたような、村を代表する農家の家しか残らない。しかし、大部分の庶民の家は長持ちしないが、そうした家を残すほうが希少価値があり、文化財としての価値が高いと考えられるようになってきた。
由香
 江戸時代の庶民の家なんて、もう残ってないでしょう。

 その意味で先見の明があったのは、浦安市だね。浦安は漁師町で、台風がくると津波で水没したこともあるようなところだったから、古いものが残らない。そこで、今ある一番古いものを残そうとした。江戸時代から昭和初期までの、呉服屋、漁民の家、タバコ屋、魚屋、三軒長屋を次々と市の指定文化財にして残してきた。
由香
 浦安はディズニーランドがあるから、財政的にもゆとりがありますね。

 そのことが今になって評価されてきた。つい最近になって、この中から、漁師の家であった旧大塚家と三軒長屋が、県の指定文化財に格上げされたんだ。江戸末期の、6畳一間の三軒長屋なんて、今じゃ残ってないからね。八つあん熊さんが住んでたような家だよ。
由香
 めぐりめぐって、そういう時代の流れで、習志野市にある旧大沢家が、国の重要文化財にはならないだろうということなんですね。

 重文指定も、予算と時代の変化で変わってくるということだよ。しかし、それでも旧大沢家が、重文級の価値があることはかわらない。
由香
 習志野市内には、江戸時代の庶民の家は残ってないんですか。

 それがあるんだよ。
posted by 絢 at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月24日

古民家は、なぜ西高東低なのか


 実は関西へ行くともっと古い民家がたくさんある。東へ行くほど少なくなる。西高東低だね。
由香
 どういう理由で、古民家は西高東低になるんですか。

 江戸時代は、士農工商という身分制度があったことは知っているだろう。幕府はこの身分によって、たくさんの建築上の制限を設けていた。2階建ての禁止や、そのほか禁止されていたものは、畳、瓦、長押(なげし)、床の間、漆喰塗壁、門、式台など、かなりの制限があった。
由香
 それで古民家というと、どこを見学しても、草葺の平屋(ひらや:1階建てのこと)で、畳のない板の間暮らしだったんですね。

 ところが、関西へ行くと、瓦葺の屋根で門まである立派な古民家がたくさん残っている。
由香
 不平等ですね。

 徳川幕府は江戸に近いところほど、建築制限を厳格に適用した。幕府の威光を示したということだね。江戸から遠いところは、あまり厳しくしなかった。さらに関西は、商業が活発で、大名にまでお金を貸している商人がたくさんいた。大名は参勤交代をはじめ、幕府の命令でいろいろやらされて、どこも財政が苦しかったからね。
由香
 借金だらけでは、大名も厳しく建築制限を適用することはできなかった、ということですか。

 草葺の家が火事に弱いことは誰でもわかるだろう。その結果、関東の草葺の家は古いものが少なく、関西は、火事に強い瓦葺で漆喰塗りの外壁の民家が、たくさん残ったということになる。
由香
 なるほど、よくわかりました。すると今、関東で一番古い民家はどれなんですか。

 群馬県の茂木家が大永7年(1527)の記録があったということになっている。しかし、これはあまりにも飛びぬけて古くて、古い年代が書かれた古材を使っただけではないかという議論があって、はっきりしない。2番目に古いのは神奈川県の関家で、構造などから17世紀前半といわれているが、建築年代を書いた記録が発見されているわけではない。3番目がこの旧大沢家だよ。
由香
 すると、今でも建築年代の記録がある民家としては、関東以北で最古の家じゃないですか。

 ところが、国が建築年代の順番をつけるときは、国の重文を対象に順番をつけている。従って、現在記録のある民家で関東最古のものは、茨城県の椎名家(1674年)となっている。
由香
 重要文化財を断ったことが、今も尾を引いているんですね。椎名家より10年古いのに。

 しかし、重文でなくても、このいきさつを知れば、習志野市の旧大沢家が、記録のある建物としては関東最古であることがわかるだろう。
由香
 今後、国の重文に指定されることもあるんじゃないでしょうか。

 それはむずかしいだろうね。
由香
 どうしてですか。

 時代は変わりつつある。建築年代だけが重視された時代は、過ぎ去ってしまった。
由香
 どういうことですか。
posted by 絢 at 17:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

旧大沢家は重文級の古民家

由香
 習志野市内にはどんな古民家が、移築保存されているんですか。

 藤崎森林公園には、長生郡から大沢家が移築保存されている。この建物は、国の重要文化財級の貴重な建物だよ。
由香
 どこが貴重なんですか。

 戦後、古い茅葺き民家が次々と姿を消して行くことに危機感を抱いた人達が、昭和40年代に、民家の緊急調査をした。そして、江戸前期、中期、後期の代表的な民家を重要文化財に指定し、保存して行くことになった。
由香
 そのときに、この建物も発見されたんですね。どこが重文級だったんですか。

 これらの建物が建てられた時代は、建築の記録を残しておく時代ではなかったから、造り方や構造で建築年代を推定した。しかし、ごく少数の建物には、屋根裏に墨で年代が書かれていたり、何らかの記録が残っていた。こうした記録がある建物は、ほかの建物の建築年代を推定する上でも、たいへんに役に立つので,とりわけ貴重な建物ということになる。
由香
 つまり、大沢家の建物には、建築年代を確定できる記録があったということなんですね。

 しかも、昭和40年代に発見された中では、関東以北で最古の年代だった。寛文4年、1664年だよ。
由香
 またまたすごいじゃないですか。それじゃ、すぐに国の重文という話になりますね。

 ところが、所有者の大沢さんが、重文指定を断ってしまった。建物を改造するか、建て替える予定があったらしい。
由香
 それは残念な話ですね。それがどうして習志野市へやってきたんですか。

 数年後に大沢さんは、考えが変わった。古民家を改造するのではなく、別に新しく新築し、古民家は、どこかで保存してもらおうと考えた。
由香
 そこでやっと、重文指定ができる環境が整ったことになりますね。

 ところが、国は重文の指定をしなかった。
由香
 どうしてですか。前に断られた腹いせですか。

 国は、重文に指定すると、建物の補修や移築保存で何億円ものお金が必要になる。そこで、各都道府県から各時代を代表する民家を、4棟か5棟選んで、その建物を国の費用で保存する計画を立てた。ところが、大沢さんが断ったので,県内のほかの建物を重文に指定してしまった。そういう事情で,いまさら指定することは困難になってしまったんだ。
由香
 で、どうしました。

 大沢さんは、この古民家の引き取り手を探すために、新聞に出した。そうすると30人以上も手を挙げた。アメリカからも引き取り手があったというよ。
由香
 そこに習志野市も応募した、ということなんですね。

 大沢さんは、同じ千葉県内に移築されることを望んで、習志野市に決めたんだ。千葉県も県内に保存されるのならと、県の指定文化財にし、移転費用の一部を補助したんだ。
由香
 そういういきさつは、私が読んだ資料の中にはありませんでした。藤崎森林公園の説明板にも書いてありませんでした。

 瀬山家の時にも言ったけれど、建物は、建てられたいきさつであるとか、住んでいた人の物語であるとか、移築のいきさつを知ることで、より味わい深いものになるんだ。ただ、西暦何年に建てられた建物ですよという程度の説明では、つまらないね。
由香
 ところで、建築記録のある民家としては、最も古いという話は、今でもそうなんですか。 

 
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2006年06月23日

千葉工大の南側を歩く


 それでは、千葉工大の通用門からもとへ戻り、鉄道隊の説明板から、南へ歩いて行こう。
由香
 千葉工大の説明はないんですか。

 千葉工大は、授業の上手な先生を集めているらしい。最近では鯨衛星を打ち上げて話題を呼んだ。なんといっても津田沼駅のすぐ前にあるから、通学には最高の場所にある。校舎はここだけでなく、市内の海沿いの埋立地にも建っている。市内の図書館には千葉工大の本がたくさん置いてある。理系の私立としては最も古い歴史があるらしい。皆さん工大を目指しましょう。
由香
 宣伝ありがとう。工大の敷地は、鉄道隊以外の歴史はないんですか。

 関東大震災の後、まっさきに鉄道が復旧された。そして、東京方面から多くの負傷者が運ばれた先が軍隊だった。大久保にも運ばれたが、なんと言ってもここは駅のすぐ近くにあるから、たくさんの負傷者でいっぱいになった。そして、身よりもわからないまま亡くなる人もたくさんいて、津田沼町内のあちこちにそうした人を弔う墓ができたというよ。
由香
 工大の敷地は、軍隊と関東大震災に関係があった場所だったんですね。ここを歩いていても、その当時のことを思い浮かべるのは不可能ですね。

 古い建物などがまったく残っていないので、無理だね。歴史の話を聞いた上で、古い建物を見学すると、その当時の風景、空気、雰囲気までが感じられる気がする。古い建物を残す意味はそういうところにあるんだ。しかし、古い建物を残すには金がかかる。今は国も自治体も財政難だから、古い建物を残すのはむずかしくなっている。
由香
 たしかに、14号沿いの瀬山邸の話を聞いて、今までとは違った気持ちで見られるようになりました。大正10年という建築年代がわかっただけでも違いますね。ところで、習志野市は古い建物を保存しているんですか。

 民家の保存という点では、川崎の民家園がある。川崎がすごいのは言うまでもないが、実は習志野市もすごいんだよ。

 
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2006年06月22日

習志野市と戦争の遺物


 このかどから南(右)へ行くのが津田沼街道だけれど、東(左)方向へ100m行くと千葉工大の通用門がある。このレンガ造りの門が鉄道隊時代の表門だった。戦争の遺跡として国の登録有形文化財になっているよ。ただし、文化財になっているのは門柱だけで、扉の部分は昔の写真から、似たようなものを作って取り付けてあるんだ。それと、大きな車が出入りできるように、間隔を20cmづつ広げたので,昔より40cm広い門になっている。
由香
 習志野は昔、軍都と呼ばれたぐらいですから、たくさん戦争に関係した遺跡があるんでしょうね。

 それがほとんど残っていないんだ。国登録文化財になっている東習志野の陸軍演習場内にあった囲壁、つまり壁くらいしかない。それ以外には、大久保に司令部の跡地が公園になっていることと、そこに当時の門柱があるくらいだね。
由香
 戦争のマイナスイメージから、できるだけ戦争時代のものを消し去ろうというのが、これまででした。しかし、最近は戦争時代の遺物に、脚光が浴びていますね。新聞を見ていても、よく出ていますよ。

 広島の原爆ドームが世界遺産になったことで、日本人の文化財に対する考えが大きく変わってきたんだ。
由香
 どういうことですか。

 それまで日本人は、文化財といえば、縄文・弥生時代の土器とか、奈良・平安時代の古代から、せいぜい戦国時代くらいの遺物を意味するものと思っていた。江戸時代くらいでは、国の重要文化財に指定するには、新しすぎると思っていた。だから、明治時代以降のものが、文化財になるなんて思っても見なかった。それが突然ユネスコから、原爆ドームを世界遺産にしたいと言われて、あっと驚いた。
由香
 戦国時代から1945年の原爆では、350年も頭を切り替えなくてはいけないから、それはたいへんでしたでしょう。コペルニクス的発想の転換が、必要になったことでしょう。

 爺さんの人生で一番驚いたのは背面飛びだ。若い頃、走り高跳びが好きだった。それが、メキシコオリンピックで、背中から飛んでいる人が金メダルを取った。その写真を新聞で見たときに、あっと驚いた。
由香
 あのう、今では背面飛びは、ごく普通の飛び方なんですけど。それに、最近では、背面じゃない飛び方に戻ってきてもいるんですけど。

 そんなふうに、人間の物の考え方は変わっていくのだから、あわてて自殺するでないぞ。
由香
 あのう、話がそれていっているようなんですが。

 とにかく、世界遺産に登録されるためには、その前提として、その国の重要文化財に指定されていることが必要なんだ。ところが、それまでの日本人の感覚では、原爆ドームは新しすぎて、文化財の対象には入っていなかった。国の重文にも指定されていなかった。そこで、あわてて重文に指定して、それから世界遺産になったんだよ。
由香
 世界遺産になれば、国際的な評価が高まり、観光客も増えるでしょうから、いいことずくめですよ。

 これ以後、日本の文化政策は大きく転換して行くことになる。伝統的建造物群保存地区や登録有形文化財が法制化され、明治以降の近代絵画や建物も次々と国の重文に指定され、最近では景観までも文化財の範ちゅうに入ってきている。
由香
 だから、習志野市民も考え方を変えて、戦争の遺跡を大事に保存し,観光の対象にして、街作りに役立てたほうがいいんじゃないでしょうか。

 毒ガス兵器を作っていたという、陸軍習志野学校があったところが、習志野の森として保存されている。ここに記念館を建てて、毒ガス兵器を展示したりしたらどうだろう。今のところ、市内では谷津干潟とバラ園が観光の目玉だけれど、もっと多面的な観光施設の整備を考えたらいいと思うね。

 
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2006年06月21日

千葉工大は陸軍の鉄道隊だった

由香
 そろそろ津田沼駅から出て行けるのかしら。

 現在の習志野市津田沼といわれる地域は、昔は久々田といわれたところであり、高齢者の中には、慣れ親しんだ久々田の名前を復活してほしいという希望があることを確認した上で、南口へ出て行こうか。
由香
 1階へおりる階段をおりて、まっすぐ行くと、千葉工大のかどの信号へ出ますね。

 この信号を渡るとすぐに解説板がある。千葉工大が、かって陸軍の鉄道第2大隊があった場所であることを解説している。
由香
 なんだか読んでみても、何を書いてあるのかよくわからない文章ですね。

 鉄道隊が戦争でどういう役割をはたしたのか,習志野の鉄道隊は歴史的にどう位置付けられるのかをまったく説明していないので、軍事専門家以外が読んでも、理解できない文章になっている。
由香
 悪文の代表みたいな看板ですね。ところで、鉄道隊ってどうして必要だったんですか。

 戦争をやれば最前線の軍人さんたちに,食料も砲弾も運ばなければならないし、怪我をした人を治療するため、連れ戻すことも必要だろう。明治27年の日清戦争では、これをすべて馬と荷車でやっていた。これではまったく能率が上がらないのは、誰でも理解できるだろう。そこで、進軍すればすぐその後に鉄道を敷いて、鉄道輸送にすれば便利だと考えて、日清戦争直後の明治29年に最初の鉄道隊が東京に作られたんだ。トラック輸送の時代の前の話だよ。
由香
 そう言っていただくとよくわかります。

 その後、日露戦争で鉄道隊が大活躍し、たいへんな戦力になることがわかったんで、部隊を千葉町と津田沼町に移し、より広い場所で、鉄道をつくる訓練ができるようにしたんだ。そして、何度かの再編ののち、最終的に千葉と津田沼の二ヶ所だけが残ったんだ。
由香
 それでこのあたりには鉄道隊が造った演習線がたくさんあったんですね。

 ここから松戸へ行く新京成もそうだし、津田沼・千葉間のかっての演習線はハミングロードという遊歩道になっている。東部野田線もそうだ。
由香
 新京成が曲がりくねっているのはそのせいなんですね。

 鉄道隊は、現在のわれわれにもたいへんな恩恵をもたらしているよ。
由香
 遊歩道ですか。

 違うよ。新京成は曲がりくねっているおかげで、広大な馬の放牧場だったところを広い範囲で開発することができた。そして、最大の恩恵は、すでに線路用地が大部分確保されていたので、運賃が安くできたことだ。
由香
 そういえば、あとでできた北総鉄道の運賃の高さにはびっくりしますね。それに比べれば、新京成はずっとずっと安いですね。

 同じ京成グループでも、これだけ違うのは驚きだね。
由香
 鉄道隊さまさまですね。それにしても、そういう歴史を書いて説明してあげれば、読む人も楽しくなる説明板になるとおもいますね。ところで、鉄道隊の遺物は今も残っているんですか。
posted by 絢 at 17:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月20日

鷺沼は頼朝伝説の地


 鷺沼がそうだよ。吾妻鏡に出ている地名だ。
由香
 吾妻鏡って、源頼友が鎌倉幕府を作ったときの歴史書でしょう。

 よく知っているね。その中の治承4年、1180年10月1日に頼朝と頼朝方の武士たちが、鷺沼の御旅館に集まったことが書かれている。
由香
 すごいじゃないですか。頼朝伝説があるところはどこも文化財になったり、大きな説明板があるのが普通です。鷺沼にも何かあるんでしょう。

 それが何もない。
由香
 どうして何もないんですか。

 鷺沼御旅館といっても、それがどこかわからない。いろいろな説はあるけれど。
由香
 それらしいところはあるんでしょう。

 慈眼寺(じげんじ)の右となりにかって鈴木家があった。そこは今は売却されて、分譲墓地になっている。鈴木家の屋号は陣屋というから、昔から人々の伝承では、ここが御旅館の場所だといわれている。
由香
 それだけで十分じゃないですか。800年以上も前のことだから、建物もぽつんぽつんとしかなかったでしょう。そこに頼朝とその武将たちが集まったんだから、陣屋という屋号は、そのものじゃないですか。

 今は分譲墓地になったので、かっての陣屋の土地の奥にまで入って行けるようになった。行って見ると、周囲に建物が建てこんでいる現在でも、ここだけがうっそうとした雰囲気が残っている。
由香
 いいじゃないですか。私が市長ならすぐ大きな看板で、吾妻鏡の記述と陣屋伝説を解説した説明板を立てて、観光バスが止まれる駐車場も用意して、頼朝伝説の観光地にしてしまいますよ。

 当時から、地名が変わっていないのはここだけだし。
由香
 どう言う意味ですか。

 千葉県内には、東京湾を渡った頼朝が上陸した島など、吾妻鏡に書かれた地名がいくつか残っているが、鷺沼以外はすべて名前が変わってしまっている。鷺沼だけが、吾妻鏡に書かれた地名と同じ地名のままで、今日まできているといわれているんだ。
由香
 すばらしいじゃないですか。すぐに観光地にして宣伝しましょう。地元が栄えますよ。このあたりを頼朝とその武将達が、馬にまたがって走っていたか、歩いていたことは間違いないんだから。それだけで歴史ロマンの地になりますよ。町作りには最高じゃないですか。

 ぜひ由香ちゃんに市長になってほしいね。
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2006年06月19日

津田沼は久々田だった


 津田沼にこだわり、津田沼の歴史を残したいから、話している。津田沼論をクリアしないと先へ進めないのは、やむをえない。
由香
 それじゃ、津田沼という名前自体の由来を、お聞きしましょうか。

 習志野とか津田沼という名前の由来は、市が出している本に、たくさん書いてあるよ。だからここでは説明したくない。ただ、津田沼が谷津(やつ)、久々田(くぐた)、鷺沼から、末尾の漢字一字ずつ取出してくっつけた、明治22年の造語であることだけは覚えておいてほしい。特に、久々田村が、このあたりでは一番大きい村であったことを記憶しておいてほしい。
由香
 谷津と鷺沼は今でも地名として残っていますが,久々田という地名は聞きませんね。習志野市谷津とか習志野市鷺沼という住所はありますけど。

 習志野市は、もとの津田沼町が中心になって昭和29年に誕生した。津田沼町の時代は久々田という地名があったんだけれど,習志野市になるときに、谷津と鷺沼の地名は残し、その中間にあって、もっとも人口の多い久々田地区を津田沼という地名に変えてしまったんだ。
由香
 明治22年から65年間使われた津田沼という名前を残すために,久々田を津田沼に変えてしまったんですね。久々田という地名は、完全に消滅してしまったんですか。

 地元の人の会話の中では、「久々田のだれだれさん」というように、今でもよく出てくる地名だけれど、住居表示のなかには出てこないので、新しい住人には、まったくわからない地名になってしまっている。久々田公園にその名をとどめているだけだけれど、なぜその公園が、久々田公園と言われるのかを、知らない人のほうが多くなりつつあるんじゃないかな。
由香
 久々田は古くからあった地名なんですか。

 このあたりの人たちが、毎年初詣でに行く菊田神社は、もとは久々田大明神と呼ばれていたので、久々田は古くからあった地名だけれど、漢字3字の地名は、古代から続くほどの地名ではないよ。
由香
 漢字3字はどうして古くないんですか。

 古代律令制のもとで、和銅6年(713)に国、郡、里の名は2字にするよう勅命が下ったからだよ。だから、奈良・平安の古代からある地名は、ほとんど漢字2字なんだ。
由香
 そう言われてみると地名はほとんど漢字2字ですね。まったく気にもしなかったんだけれど、古代の律令制が、今の私達の身の回りの地名にまで影響を与えていたんですね。

 習志野や津田沼は明治時代にできた地名だし、久々田も江戸初期かせいぜい戦国時代だろう。
由香
 習志野市に古代からある地名ってあるんですか。



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2006年06月18日

銚子石とは?

由香
 銚子石って、銚子で産出する石ですか。

 銚子ではなく、犬吠埼で産出する石のことをいうんだ。別名、犬吠砂岩ともいう。銚子港から舟で運ばれたから銚子石というんだろうね。利根川沿いの寺の墓石によく使われている。
由香
 そういえば犬吠埼って、大きな石や岩がごろごろしていますね。やはりもろいんですか。

 もろいんだ。墓石などは100年も経つとぼろぼろと崩れてくるそうだね。犬吠埼は千葉県内では最も古い地層で、白亜紀の地層だといわれている。
由香
 白亜紀って、ジュラ紀の近くだから、恐竜の化石が出てくるかもしれませんね。

 採掘は禁止されているんで、見つかることはないと思うよ。波で削られたところから、恐竜の化石が出てきたら、大騒動になるだろうね。
由香
 ところで、津田沼と銚子石とは何か縁があるんでしょうか。

 瀬山邸のような確証がない話だけれど、廣瀬家の井戸の外流しが、ひょっとしたら銚子石ではないかといわれている。
由香
 またまたわからないことが出てきました。廣瀬家ってなんですか。外流しってなんですか。

 廣瀬家は、平成15年に国の登録有形文化財建造物に指定された家のことだよ。瀬山邸から歩いても3分くらいのところにある。外流しは、井戸の横にあって、井戸水で炊事や洗濯をする場所のことだよ。
由香
 いまどき井戸があることだけでも珍しいのに、銚子石の流しがついているなんて、貴重な井戸じゃないんですか。

 廣瀬家には、今ではなくなってしまった珍しいものがたくさんある。その話は、いつかすることにして、廣瀬家の井戸の外流しは、銚子石ではないかといわれているだけで、確認はされていないんだ。
由香
 銚子市の教育委員会の人に、調べてもらえばいいんじゃないでしょうか。

 ところが、銚子市のほうでも、あまり銚子石の研究をしたことがないそうで、よくわからないらしいんだ。
由香
 情けない話ですね。

 御影石や大谷石のように、広く使われた石ではないからだよ。利根川流域で使われた程度だから、今までほとんど注目されなかったんだ。でも、銚子市もこれから調べてみるといっているんで、今後の研究に期待したいね。廣瀬家の外流しは、地質学者に見てもらっても、よくわからないといわれてしまったので、今のところ不明だ。
由香
 セメントやコンクリートでなく、石の流しがあるというだけで、十分に貴重だと思いますよ。ところで、なかなか津田沼駅から外へ出ることができませんね。石の話はこれで終了にしましょう。
posted by 絢 at 07:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月17日

瀬山邸はなぜ洋風なのか


 建物はその歴史を物語ることで、よりいっそう輝いて見えてくる。一宮にあるごく普通の建物が、芥川竜之介が1ヶ月逗留し、ラブレターを書いたというだけで文化財になってしまった。ほかにも北原白秋が住んだ家が市川で保存されているし、夏目漱石や森鴎外が住んだ借家は明治村に移築されて、国の重要文化財にまで指定されている。
由香
 瀬山邸にはどういう歴史があるんですか。

 この建物の設計者は三代川長吉となっているが、実は三代川長吉の自宅として建てられた家で、跡取娘のとみさんが瀬山卓蔵と結婚したので、今では瀬山邸と呼ばれているんだ。だから長吉の話をしないとこの建物の歴史は見えてこないんだ。
由香
 もとは三代川家の建物だったというわけね。その三代川家は、どういうわけでこの建物を建てたの。

 三代川家は江戸末期からの回漕店だった。
由香
 回漕店ってなんのことですか。

 海運業者のことだよ。昭和40年頃までは、国道14号から先は海だった。そこから船で、甘藷(かんしょ)を中心とした雑穀、米、薪、炭が江戸,東京へ出荷されていたんだ。
由香
 今では、袖ヶ浦団地があって、その先もずっといろんなものがあるので、海だったなんて信じられませんね。

 だから誰かが昔のことを語り継がないと、消えてしまうんだ。
由香
 現代の稗田阿礼みたいですね。

 三代川家は江戸末期から回漕店として繁栄していたが,鉄道の開通によって影響を受けるようになった。決定的だったのは,鉄道が明治43年に複線化され、輸送量の増大と運賃の値下げが実現したことだった。さらにトラックによる運送が始まったのも追い討ちをかけた。明治4年生まれの長吉は、父の急死のため、数え16歳で家業を継いだが、明治末期に海運業に見切りをつけ、でんぷん製造工場を建てた。
由香
 どうしてここで突然、でんぷんが出てくるんですか。

 津田沼とでんぷんを語り始めると、長い長ーい話になるんで、あとで話すことにするよ。とにかく明治の18年頃には現在の千葉市蘇我のあたりで、でんぷん製造の工法が改良され、高収益をあげられるようになった。長吉も千葉市に工場を建設し,澱粉改良同業組合長や津田沼町会議員を歴任し、見事に海運業から転進した。
由香
 傾いた家業を澱粉で建てなおし,家まで建て替えたというストーリーが見えてきましたよ。

 当時はでんぷんでもうけた人がたくさん出て、彼らが建てる家を澱粉御殿といわれた。
由香
 この家も澱粉御殿の一つだということはわかってきましたが、どうして洋風の家にしたのかしら。

 長吉は回漕業ということで、船でよく東京へ行っていた。そこで、近代化の象徴のような洋風の建物を見て,影響されたんだろうね。それと大正6年10月1日の台風による大津波で、14号沿いの建物がほとんど流されてしまった。津波に負けない建物ということで、レンガや石を使ったんだろうと想像される。
由香
 石なし県の話が房州石になり、瀬山邸にまでいってしまいましたね。房州石のほかには、千葉県には石はなかったんですか。

 銚子石があった。
posted by 絢 at 07:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月16日

津田沼にあった房州石


 実は津田沼には房州石で建てられた代表的な倉庫があったんだ。鋸山のロープウェイで頂上まで行くと、駅の建物の上の階に房州石の記念室がある。そこの写真の中に習志野市の「瀬山家の石倉」がある。いまは取り壊されてしまったが、かって瀬山家の石倉は房州石で造られた代表的な建造物だったんだ。
由香
 瀬山家ってどこにあるんですか。

 瀬山家の洋館を知らない人はいないでしょう。国道14号の京成津田沼駅入口といえば、かってはローソンと反対がわに墓石店があった。
由香
 ああ、あそこならわかります。今は両方ともなくなってしまいましたね。

 今なら、アンポンタンというパン屋さんのちょっと西の信号とでもいいましょうか。
由香
 瀬山家はそのあたりにあるんですか。

 この京成津田沼駅入口の信号から、14号を船橋方面へ150mほど行った右側(北側)にあるんだ。
由香
 そういえば、あそこには古めかしい石造りの洋風の建物がありますね。あの建物は、国道14号を利用する人なら、誰でも知っているでしょう。

 資料によるとレンガ造りと書かれている。建築年については大正10年で、習志野市、いや千葉県を代表する大正建築のひとつだね。
由香
 遠藤君蔵が建てたのかしら。

 違うよ。君蔵は大正元年には行方不明になっていたからね。この建物を建築したのは、地元で7代も大工を続けたといわれる都築(つづき)工務店だ。
由香
 国道14号を走っていても、大正時代の洋風の建物は見かけたことがないわ。どうしてそんな時代に洋風の建物を建てたのかしら。 
posted by 絢 at 07:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月15日

房州石はどこで使われたか。


 江戸末期に外国から開国をせまられ、日本国内の5ヶ所で開港することになったことは日本史で学んだろう。この近くではどこだった。
由香
 横浜ですか。

 そう。横浜の港を建設するために大量に切り出されたんだ。鋸山は東京湾の対岸にあるんで、運搬に便利だったことが理由だろうね。
由香
 もろい石なのに使ったんですか。

 当時は石を切り出すのも、運搬するのも、すべて手作業だったから、たいへんな重労働だった。対岸から船に乗せるだけですむ房州石は、ありがたい石だった。それにかたい石かやわらかい石か、当時はあまり気にしなかったろうしね。
由香
 手作業で石を切り出すのって、どうやったのかしら。

 ツルハシでこつんこつんとたたいて切り出したんだ。だいたい15cm×30cm×90cmの大きさの石ひとつ切り出すのに、大谷石でツルハシを4千回もふるったというよ。1人の人が1日に切り出せるのも10本程度だった。昭和35年頃まで、このような手掘りが行われていたんだ。
由香
 たいへんな重労働じゃないですか。それじゃ横浜港を作るのに、たいへんな労力が使われたんですね。

 港だけじゃない。横浜は丘陵地が多いから、擁壁や土留め、礎石など、大変な数の房州石が使われたんだ。
由香
 崩れやすい房州石をそんなに大量に使って大丈夫なんでしょうか。

 房州石の名誉にとってありがたかったのは、自分で崩壊する前に、関東大震災で、港も、擁壁も土留めも崩壊したことなんだ。そしてその頃には、コンクリートが使われるようになっていたし、鉄道網の発達によって、もっと硬い石やレンガが流通するようになっていたことなんだ。
由香
 関東大震災が大正12年のことですから、だいたい60年前後は大丈夫だったんですね。

 百年以上になると危なかったかもしれないけれど、60年程度なら十分に役目を果たした。横浜港の開港当初を支えた石として、歴史に残る役割を果たしたといっていいね。
由香
 ところで、今回は津田沼にこだわった話をするということだったんですが、いったい津田沼と房州石にどんなかかわりがあるんですか。

 それがあるんだよ。 
 

posted by 絢 at 17:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月14日

千葉県は石なし県か?

由香
 石はそのへんにごろごろしてるんじゃないんですか。

 石材としての石だよ。石は昔から墓石や建物の基礎、門や塀、土留めとして使われてきた。そうした用途で使う石のことだよ。石材の名前で知っているものはあるかい。
由香
 大谷石とか御影石なんかは聞いたことがありますよ。

 御影というのは神戸のほうの地名だけれど、大谷は栃木県の宇都宮の郊外の地名だね。
由香
 そうすると大谷石が津田沼にもたくさん入ってくるようになったということですか。

 そのとおりだね。昭和50年ころからはブロック塀が多くなったけれど、それまでは石塀は大谷石が多かった。今でも古い家の塀や土留めにごく普通に見られるだろう。
由香
 そうすると千葉県には本当に石材として使われた石がなかったんですか。昔から大谷から運んだんですか。

 そんなことはないよ。宇都宮の郊外から津田沼まで大谷石を運ぶとなったら、鉄道のない時代はたいへんだった。荷車で近くの川まで運び、船で太平洋に出て、房総半島をぐるっと回ってくるか、銚子で利根川に入って関宿から江戸川を下るか、途中で荷車に積み替えて運ぶことになる。
由香
 そんなことはできないでしょう。

 重い石を大谷から運ぶことは現実には無理だった。だから県内の石を使っていた。しかし、木と違って石は何百年も使えることが必要だけれど、県内の石はもろいんだ。
由香
 県内の石はどこの石を使っていたんですか。

 房州石だよ。
由香
 房総半島で取れる石を房州石といったんですか。

 房総半島全体ではなく、みんなも良く知っている鋸山の石のことを言ったんだ。
由香
 そういえば鋸山に行くと石切り場の跡を見学しますね。あれだけ本格的に切り出していたんだから石なし県とは言えないんじゃないですか。

 ところが房州石はもろいんだ。房州石は凝灰岩性の石なんだ。由香ちゃんの高校の地学で学んだと思うけれど、凝灰岩は長い年月の間に崩壊していってしまうんだ。
由香
そんな石じゃ誰も使う人がいなかったんでしょう。

 それが使ったんだ。

 
posted by 絢 at 09:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月13日

津田沼駅の利用状況と物流


 津田沼に限定した話をしているのだから、津田沼駅で長い話になるのもしかたないよ。できるだけ、習志野市が発行している本に出ていないことを紹介したいと思っているのだから、聞いて損はないと思うよ。
由香
 それでは当時の津田沼駅の利用状況でもお聞きしましょうか。

 江戸時代から庶民の交通手段は、船が中心だった。東京までの運賃も、鉄道は船の3倍もしたので、庶民は船を利用した。船橋あたりまでなら当時の人はみんな歩いて行っていたよ。
由香
 それじゃ鉄道はいつもガラガラで、存在価値がなかったの。

 たしかに開業して5年くらいは1日の津田沼駅の乗降客は100人前後だった。たぶん大久保にあった軍隊の軍人さんが利用するぐらいだったろう。しかし鉄道は農作物、建設資材などの物資の運搬にたいへん役立った。房総鉄道が開通したころには上野から東北方面へ行く鉄道も開通していたので、東京を経由して物資の移送がたいへん便利になったんだよ。
由香
 明治の中頃にはどんなものが流通していたんでしょう。

 当時このあたりの特産品だった甘藷が、それまでの船に代わって、鉄道で輸送されるようになった。逆に入ってくるようになったもので目に付くのは石材だよ。
由香
 石ですか。

 千葉県は石なし県といわれている。
 
posted by 絢 at 15:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月12日

遠藤君蔵はいずこへ

由香
 どういう失敗をしたの。

 赤羽鉄道工事で不慮の失敗を招いたといわれているが、具体的にどういうことだったのかはわからない。とにかくこの失敗の後、君蔵は行方をくらましてしまった。明治45年か大正元年ころのことだ。
由香
 誰も助けてくれなかったの。

 当時は会社更生法や民事再生法などがなかった時代だから、法的に救済されることがなかった。だから事業に失敗したり、株で大損すると消えてしまう人が結構いた時代なんだ。
由香
 そういう時代を経て、法律で救済されるようになってきたというわけね。

 当時は自由競争の資本主義が始まったばかりの時代だから、26才で富豪になる人もいれば、ひとつの失敗で蒸発する人もいた時代なんだ。
由香
 それで君蔵はどこで発見されたの。

 わからない。行方不明になって90年以上経つが、出身地の埼玉でも記録がない。敷地千坪の豪邸を残したまま今も行方不明なんだ。悲劇はこれだけじゃない、バックアップしていた銀行もつぶれた。
由香
 どこの銀行。

 舟橋商業銀行だ。貸付の7割が遠藤組だったので、君蔵が姿を消して6年後くらいにつぶれた。君蔵の豪邸を処分したくらいではとうてい足りなかった。
由香
 ライブドアや村上ファンドが花火のように輝いて、あっという間に消えたのと似ていますね。

 いっしょにしてほしくないなあ。君蔵は20年間も請負業者の偉材といわれ、歴史に残る工事をやってきたし、慈善事業にも尽力した。金もうけしか考えず、人の心は金で買えると言った不遜な人とはまったく違うよ。
由香
 なんだか津田沼街道を歩くといっても、まだ一歩も駅から外へ出ていないんですけど。

posted by 絢 at 07:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月11日

津田沼の鉄道は誰が工事をしたのか


 明治26年に市川ー千葉間の房総鉄道の工事を完成させたのは、弱冠26才の遠藤君蔵という人なんだ。このあと遠藤組は大発展をすることになる。なにしろ、千葉県下の土木事業の8割近くを受注し、東京や埼玉県にも事業を拡大したんだ。
由香
 大林組や熊谷組は聞いたことあるけど、遠藤組はないわね。

 このあと遠藤組は、軍隊の司令部、弾薬庫、火薬製造所、高等師範学校、東武鉄道、米穀取引所、博覧会会場など歴史に残る工事をたくさん手がけてきた。この付近では習志野俘虜収容所と病舎を建築している。
由香
 すごいじゃない。この実績からするとゼネコン大手五社の、どこかの前身だったのかしら。

 ところがそうじゃない。明治26年に遠藤君蔵26才にして、房総鉄道の工事で巨利を得、船橋駅の南に敷地千坪の豪邸を建て、花火のごとく輝いた船橋遠藤組は、わずか20年で消えてしまったんだ。
由香
 まるで小説のような話ね。よほどあくどい人だったの。

 これも反対だ。遠藤君蔵という人は、温厚篤実、義理人情に厚い人だったといわれている。赤十字や社会福祉事業に多額の寄付をし、貧乏な人たちに慈善行為を行ったと記録されているよ。
由香
 そういう人がどうして消えてしまったの。

 事業を大きくすればするほど、失敗したときのダメージも大きくなる。迅速で確実な工事をした遠藤組は「旭日昇天」といわれる勢いで繁栄したが、「盛者必衰」「栄枯盛衰」の言葉どおり、消えてしまった。
 
 
posted by 絢 at 08:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月10日

JR津田沼駅はどうしてこの場所にあるのか


 当時は、農地を削られるのを嫌がったり、蒸気機関車の黒い煙で作物が実らなくなるといわれたので、誘致合戦どころか、できるだけ離れたところに作ってほしい、という時代だった。
由香
 今とは正反対ね。

 鉄道を敷いた私立房総鉄道は、成田参詣で人気のあった成田街道の近くに、駅を作りたかったろうと思うけれど、結局、かなり離れたこの場所になってしまった。直線距離でも700mは離れている。
由香
 ここは当時の津田沼村の中心部である、現在の京成津田沼駅からも、かなり離れていますね。地図上の直線距離でも1Km以上離れている。

 京成は30年もあとに作られたので、駅誘致合戦の時代になっていた、ということでしょう。鉄道が便利なことは、すぐにわかることだからね。
由香
 開業したばかりの津田沼駅は、見渡す限りの畑の中に、ぽつんと駅舎があるだけの、さびしいところだったんでしょう。

 「文明開化は便利なものよ火事が長屋を引いて行く」という、唄そのままの情景が浮かんでくるね。それはとにかく、習志野市の玄関はこの津田沼駅だといわれるが、実は、市の中心にあるのではなく、一番はじっこにある。駅の構内の一部は、船橋市に入っているほどの場所なんだ。
由香
 場所の話はこのくらいにしましょう。次の質問は、この鉄道を建設したのは、工事をしたのはだれなんでしょうね。
 
 
 
posted by 絢 at 18:08| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月09日

JR津田沼駅での爺さんと由香


 由香ちゃん、ここがJR津田沼駅だ。今日は、ここから津田沼街道を歩いていこう。昔の話が出てきたら、昔の景色を想像しながら、ゆっくりと歩こう。
由香
 川越や鎌倉、千葉県内なら佐原あたりが良かったんだけれど、どうしてこんな歴史のない習志野市へつれてきたの。
爺 
 歴史はあるよ。習志野市内では30ヶ所以上で縄文土器が発見されているし、鷺沼には古墳時代の古墳がある。源頼朝が訪れたといわれる家もあった。建築年代の記録がある民家としては首都圏でもっとも古い家や千葉県内では2番目に古い民家もある。国の登録有形文化財建造物も四ヶ所あるよ。
由香 
 ぜんぜん聞いたことがないことばかりだけれど、ま、だまされたつもりで行きましょうか。
爺 
 この駅を利用している人は多いけれど、いったい、いつこの駅ができたか知っている人はいないでしょう。房総鉄道は明治27年(1894)に完成、開業し、津田沼駅は翌年に開業しているんだ。
由香 
 意地の悪い質問をさせていただくと、どうしてこの場所が駅に選ばれたのでしょうか。誘致合戦が激しかったでしょうに。









posted by 絢 at 16:12| 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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