2006年07月31日

家康と八幡太郎義家


 徳川家康は、いろいろと名前を変えているが、徳川家康となる直前の名前は松平家康だった。
由香
 三河の松平家が全員、徳川に変わったんですか。

 いや、自分だけ変えて、その他の親類は松平のままだった。
由香
 どうしてそんなことをする必要があったんですか。

 それはやっぱり、将来、将軍になりたかったからだろう。
由香
 将軍になるには、徳川の名前が必要だったんですか。

 徳川でなくてもいいよ。たとえば、足利とか新田でもいい。足利家康でも、新田家康でもいいんだ。しかし、これではおこがましいだろう。
由香
 おこがましいってどういう意味ですか。

 自分で調べてくれ。足利や新田では、あまりにも歴史上のビッグネームすぎて、田舎もんの松平としては遠慮したというところだろう。
由香
 何の話をしているのかぜんぜんわかりません。

 新田も足利も、先祖は八幡太郎義家だよ。
由香
 源義家のことですか。

 そう。鎌倉幕府を開いた源頼朝は義家の次男の系統で、新田も足利も、義家の三男の系統なんだ。この三男は、今の群馬県と栃木県が接するあたりに移って子孫を増やした。群馬県太田市や栃木県足利市のあたりだよ。
由香
 一体何を言いたいのか、さっぱりわかりません。

 太田市の郊外には世良田という地域と徳川という地域がある。
由香
 やっと徳川が出てきましたね。群馬県太田市の郊外ですか。そこと愛知県の三河とどういう関係があるんですか。

 家康は将軍になりたかった。
由香
 それはわかっています。

 将軍になるには、清和源氏の名前が必要なんだよ。
由香
 どうしてそんな名前が必要なんですか。
posted by 絢 at 20:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月30日

千葉県に千葉姓が少ない理由


 千葉姓は、日本の歴史上のビッグネームの一つだろう。なにしろ平安時代には、千葉庄を治める領主になっていたし、源頼朝が鎌倉幕府を開くにあたって、最も功労があったものとして、東北や九州まで領地を、もらっている。現在でも東北や九州には千葉姓は多くあり、その流れを汲む名前はたくさん残っている。日本一千葉姓が多いのは、何と岩手県なんだよ。
由香
 千葉氏は、400年以上この地で栄えたんですよね。

 徳川時代が260年で終わったことを考えると400年以上も、豪族として続いたことは奇跡的だね。その千葉氏を滅亡させたのが豊臣秀吉の命を受けた徳川家康だった。
由香
 当時は、松平家をはるかに上回る歴史のある千葉氏を滅亡させたことは、千葉のすぐ近くの江戸に幕府を開くことになった家康にとっては、最もこわい名前だったでしょうね。

 だから、このあたりで住みつづけるのに、千葉という名前はまずいだろう。現在の千葉市は人口93万人の政令指定都市になっているが、江戸時代の260年間は、最後まで人口数千人程度の寒村のままだったのは、徳川幕府の政策だったといっていいだろう。まあ、寒村のままだったんで、世界一密集している貝塚の破損、破壊が少なかった。だから、千葉市内のたくさんの貝塚が、今では国の史跡に指定されるという恩恵もあった。最近では、この貝塚群を世界遺産にしてはどうかという話もある。ぜひやってほしいね。
由香
 千葉姓が少ない事情はよくわかりました。ところで、先ほど松平といいながら徳川と言っているのはなぜなんですか。松平と徳川の名前の関係を教えてください。

 名前の話ばかりになってきてしまったけれど、ついでに話そうか。
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2006年07月29日

千葉県は貝塚の密集地

由香
 習志野市、特にこの谷津地区の織戸さんたちが、散りじりばらばらにならなかったのは、運がよくて、飢きんもなく、自然災害もなく、暮らして来れたからなんでしょうか。

 少なくとも1600年代の中頃から住んでいるといわれる、織戸姓の多い谷津にも、歴史上多くの飢きんや自然災害があった。甘藷がもたらされる以前の飢きんも記録されているし、大正6年の大津波の被害も出ている。しかし、このあたりはたいへん恵まれたところで、災害に強い土地なんだ。
由香
 どういうことですか。

 千葉県は貝塚密集度が世界一なんだ。日本全国の貝塚の半分以上が千葉県にあり、日本一大きい貝塚も千葉市にある。
由香
 どういうことでしょうか。

 つまり東京湾の内湾は、縄文時代から貝が主食のような土地だった。潮が引けばはるか沖まで干潟が現れ、潮干狩りができた。だから、飢きんであれ、台風であれ、何が来ても目の前の海へ行けば食料に困ることはなかった。だから、谷津だけではなく、習志野市内には、特定の名前が密集しているところがたくさんあるんだよ。
由香
 それは知っています。鷺沼は村山に廣瀬、久々田は三橋に吉野、谷津は織戸に三代川などなど、同じ名前の表札がかかった地域はたくさんありますね。

 昔の○○本郷といわれた地域を中心に、何十もの名前の密集地がある。それは、干潟の幸によって縄文時代から食料に困ることがなかったという土地柄によるんだ。さらに1700年代の末期からは飢きん用の作物である甘藷の特産地になったし、明治時代になると軍都と言われたように、軍隊のおかげで市域は栄えた。その上、地盤は目の細かい海砂で、固くしまっているため、関東大震災の被害も受けなかったうえに、第二次大戦の空襲は、軍都であるにもかかわらず、このあたりはなかった。
由香
 実に、幸運な土地柄だったんですね。でも今では、はるか沖まで埋め立てられてしまって、潮干狩りなんて考えられませんよ。しかし、織戸という名前から、ここまで話が広がってくるんですね。

 習志野市以外の、織戸姓の密集地は、今では密集とはいえない程度まで、薄まっている。その理由を、織戸健造さんはわれわれに教えてくれたんだよ。
由香
 ところで、どうしてそんなことを、よくご存知なんですか。

 たねあかしをすると、大久保図書館に、「 織戸をたずねて 」、という本が第4巻まである。興味のある方は読んでみてください。
由香
 名前の話をついでにすると、千葉県なんだから、千葉さんが多いんじゃないんですか。

 それが少ないんだよ。
由香
 どうして千葉姓は少ないんですか。

 それは、豊臣秀吉と徳川家康に関係がある。
由香
 とうとう超大物が出てきましたね。
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2006年07月28日

日本で最後の織戸姓の密集地


 昭和40年代に、大阪府大東市に住む織戸健造という人が、自分の名前の希少性から、電話帳で全国の織戸という名前の人に手紙を送り、織戸という名前の起源について知っていることを送ってもらう、ということをされた。
由香
 変わったことをしたもんですね。今ならインターネットで一発でわかるんじゃないですか。それで、何がわかりました。織戸という名前の起源がわかったんですか。

 そこでわかったことは、織戸姓は千葉県習志野市、三重県松坂市、大分県のある郡、和歌山市の四ヶ所に集中していることだった。そして、全国の織戸姓の4分の3は関東地方にあり。関東地方の織戸姓の6割が千葉県習志野市に集中していることがわかった。
由香
 それって、わかったからって、何なんですか。

 そして、追跡調査の結果、和歌山市が、織戸姓の起源であることを、織戸健造さんは発見した。さらに、関東地方の、特に東京にいる織戸さんの多くが、習志野市周辺から移ってきたことがわかった。つまり、全国で織戸姓が今でも集中しているのは、習志野市だけということなんだよ。
由香
 あーそうですか。それって何の意味があるんですか。

 全国4箇所のうち、3箇所は分散していったが、習志野市だけは、織戸さん達は分散していかなかったということだよ。
由香
 それがどうしたんですか。

 なぜ、習志野市だけが分散しなかったと思うかい。その理由を考えてごらん。
 

posted by 絢 at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月27日

織戸村とは


 今ここは、マロニエ橋を渡ったところで、習志野商工会議所のすぐ横に立っている。このまま、左折すれば、津田沼小学校の方へ行くが、ちょっと寄り道をする。反対に、マロニエ橋の向こう側、西側へ信号を渡るよ。
由香
 少女のブロンズ像や、津田沼小学校の生徒が描いた絵を貼ってある掲示板がありますね。

 わかりずらいが、10mほど先に、右下へ下りて行く階段がある。
由香
 ほんとだ、こんなところに階段があるんですね。ここを下りてゆくと織戸村があるんですか。なんだ、ただの駐車場があるだけじゃないですか。

 今は商工会議所の駐車場になっているが,昔はつばき山といわれて子供たちがよく遊んだところだった。この駐車場から左へ曲がると織戸さんという表札がずっと続いている。逆に右へ行くと、京成電車の踏切があり、そこを越えると左にずっと、織戸さんの表札が続いている。その裏には、西光寺がある。
由香
 つまりこのあたり一帯が、織戸という姓の人がたくさん住んでいるところなんですね。踏切の向こうの伝統的日本建築が続く景色は、いい感じですね。マロニエ橋の下にこんな景色があるとは思いませんでした。ところで、ここは谷津じゃないんですか。

 昔は、谷津本郷といった。本郷というのは、その地域で最初に人が住み始めたところという意味がある。
由香
 本郷というと、東京大学の赤門がある、本郷通りあたりのことかと思いましたが。

 あそこも、本当は湯島本郷といった。どういうわけか、湯島の方がとれて、本郷だけで呼ばれるようになってしまった珍しいところだね。
由香
 余計なことをいってすみません。ここが谷津で最初に人が住むようになった、谷津本郷なんですね。習志野市が発行している本には、江戸初期に織戸という人が、紀伊和歌山から移住してきたこと、丹生神社は彼らが、今では世界文化遺産になっている丹生都比売神社(にゅうつひめじんじゃ)から分祀したことなどが書いてありましたよ。市の本に書かれてない事って何でしょうか。

 その名前自体のことなんだ。
由香
 織戸はオリトと読んだりオリドと、にごることもあるようですが、そのことですか。

 そんなことじゃないよ。
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2006年07月26日

昭和初期まで飢きんはあった

由香
 今はまだ、マロニエ橋を渡ったところにいるだけで、JR津田沼駅から700mくらいしか進んでいませんよ。昔、このあたりが甘藷、つまりサツマイモ畑だったということから、青木昆陽,飢きん,大正6年の津波,倉庫の話と、とどまることを知りませんね。

 甘藷と米の話のついでに、もう少し付け足しておこう。冷害で飢きんになるといえば、どの地域を思い浮かべるかい。
由香
 東北地方ですか。やませの吹く寒いところですからね。

 東北地方は、江戸時代はもちろん,昭和初期まで冷害による飢きんに苦しんだ。飢きんになると人身売買も、ごく普通に行われていた時代が、昭和初期まであった。
由香
 甘藷の作り方を教えてあげれば良かったのに。

 甘藷は、熱帯の植物だから,福島県あたりが限界で,そこから北では生育できないんだ。
由香
 それで、東北地方まで鉄道が敷かれた、明治中期以降、東北までが、この地域の甘藷のお得意様になっていただけた。甘藷によって潤った期間が延びたという話ですね。

 それはその通りだが、今では東北は日本一の穀倉地帯だね。
由香
 秋田こまちやササニシキ、ひとめぼれなどいくらでもブランド米がありますよ。

 つまりあるとき誰かが、冷害に強い稲を作り出したんだ。
由香
 ノーベル賞ものの人ですね。どなたですか。

 田中稔(みのる)さんだ。昭和11年から稲の品種改良に取り組み,昭和21年に藤坂5号を生み出した。当時、奇跡の米といわれ、昭和24年以降普及し、東北は飢きんから救われたんだ。
由香
 みのるという名前の通りに、豊かに稲が実ったんですね。

 田中稔さんのお姉さんの名はイネさん、妹はユタカさんという。イネ・ミノル・ユタカという名を付けたご両親の夢が実現したんだ。これを見ても子供の名前は重要だよ。子供は名前の通りの人生を歩むことがある。悪魔なんて名は絶対に付けてはいけない。
由香
 またまた話がそれ始めましたね。藤坂5号を改良して,今の東北のブランド米ができているんですね。それで、田中稔さんは、文化勲章をもらったんですか。

 何ももらっていない。
由香
 亡くなった人に国民栄誉賞を与える例もあったから,今からでも、国民栄誉賞をあげてほしいですね。これで話も尽きたでしょう。あっそうだ。まだ織戸村が残っていましたね。
posted by 絢 at 05:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月25日

甘藷倉庫の現在


 冬でも温度と湿度を一定に保つためには、昔ながらの土壁にするよりないね。土は水分を吸収したり、乾燥期には水分を出して、温度や湿度を調節してくれる天然のエアコンだからね。そもそも空気の流通が大変良くできている建物だから、大量の甘藷が出す熱を、冬場は、なるべく逃がさないようにしたんだろうね。南側には唯一、雨戸のついた窓が、別につけられている。この雨戸の開閉で、中の温度の調節をしていたんではないだろうか。甘藷の倉庫としての役割が終わって、60年以上経っているから、実際の作業を知っている人がいなくなっている。
由香
 今ではただの物置ですか。

 今でも、空気の流通がたいへんよい建物なので、物を置くと、数日でほこりだらけになる。数十日でほこりに砂がかぶり,1年も置いてあると、砂とほこりで、ものすごい状態になる。通常の蔵や倉庫では考えられないくらい、中にあるものが汚れるので、当時としては大きな倉庫なのに、今は自転車置き場になっているだけ、という状況だよ。
由香
 建てられてまもなく百年たつというのに、甘藷のための倉庫であるがゆえに、物置としても使いづらいというシロモノなんですね。

 使いづらくても、廣瀬家の代々の人達は、開口部を閉じることなく、そのまま残してきてくれたことがうれしいね。
由香
 それだけ空気が通ると台風のときが、こわいですね。

 そのために、屋根を重くしてある。屋根には厚く荒木田土を置き,その上に重い瓦が乗せてある。屋根を重くすることで、太陽熱を吸収すると同時に、台風に備えているんだ。
由香
 屋根が重いと、大地震で崩壊しませんか。

 関東大震災を生きぬいた倉庫だけれど、百年も経つと、柱もいたんでいる。国の登録有形文化財にはなっているが、補修費用は出してもらえない。個人で、古い建物を保存するには、莫大な費用がかかる。1棟なら何とかなるかもしれないが、4棟も文化財があると、個人では不可能だ。国は、海外に援助をするまえに、自分の足元にある,貴重な文化財の、保存,補修費用を支出する制度を考えてほしいね。
由香
 欧米では、企業が古い建築の保存費用を出していると聞いたことがありますよ。

 外国では,国や企業が、文化財建築の保存のために費用を出している。しかし、日本の企業は、スポーツのスポンサーは一生懸命やっているが、文化財保存のスポンサーになっているという話はほとんど聞いたことがない。
由香
 昔は、大金持ちになった人は、大原美術館、ブリジストン美術館、三渓園、MOA美術館などなど、文化に貢献した人がたくさんいましたが、最近ではほとんど聞かなくなりましたね。

 今はまだ、古い建物の文化財的価値にさえ気づいていない状況なんだ。古い建物を残してゆかなくてはいけないということを、学校でも教える時代が早く来てほしいね。
由香
 話がどんどんそれてきていますね。
 

posted by 絢 at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月24日

角寄せ蔵風の倉庫は重文級?


 角寄せ蔵というのは、柱を狭い間隔で林立させる、強い構造の蔵をいう。今なら筋交いを入れれば、強度を保てるが、三角形の構造が強いという知識のなかった江戸時代は、柱だらけの建物にすることが強いと思ったんだろうね。
由香
 廣瀬家の明治42年の倉庫は、3尺ピッチに3本の間柱が入っているということは、ほぼ10cm間隔で柱が入っているように見えるということですね。

 だから、中に入ると柱が林立している倉庫に見える。この間柱のおかげで、穀物は土壁に直接触れるのを防げるし,その柱と間柱,間柱と間柱の空間を空気が流通することができるんだ。明治24年の倉庫ではこのような構造になっていないから,その後の経験から生み出された構造なんだろうね。甘藷の特産地にできた、甘藷の保管に最も適した、角寄せ蔵風の倉庫は、日本でこれ1棟ではないだろうか。米蔵は、密閉できれば良いので、似たような蔵は日本中にあるだろうが、甘藷保存の経験が集積された、当時のハイテク倉庫である廣瀬家の明治42年の倉庫は、重文級の価値があると思うよ。
由香
 倉庫にそんな価値があるんでしょうか。

 以前に言ったように、今までは、古さだけを問題にして、古民家を選別していた。その結果、豪農,豪商の家ばかりが重文に指定されてきた。しかし、最近では、古さより、多様な社会の多様な建物の存在が、重視されるようになってきた。江戸時代の、いろいろな職業、職種の人々の建物を残してゆくことが重要だと考えられるようになってきたんだ。たしかに、米蔵は、財力の証明で、富裕層の立派な米蔵が全国にたくさん残っている。しかし、米よりも、保存の困難な穀物のために、特産地の人々が知恵を寄せ合って造った、特殊な構造の倉庫の方が、よっぽど貴重な存在であるとは思はないかい。
由香
 たぶん、日本に1棟しかないと思われる、甘藷の保存のために造られた、海岸沿いの角寄せ蔵風の倉庫の価値を、文化庁の人も、早く気づいてほしいものですね。
 ここまでは、空気の流通の説明でしたが、13度から15度の温度と90%の湿度を保つ工夫は、どうなっているんでしょう。

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2006年07月23日

明治の甘藷倉庫の構造


 最も重要なことは空気の流通だった。廣瀬家の明治42年(1909年)の倉庫には、建物の4面すべてに、開口部がある。この開口部は、鉄の棒と網が入っているだけなので、365日あいたままの状態になっている。さらに、地面と同じレベルのところにも小さな開口部が造られている。要するに年中、外気が、上からも、下からも流通するように造られている。
由香
 開口部がたくさんあれば、空気は入ってくるでしょう。しかし、建物の中で空気がまんべんなく回るシステムが必要ではないんですか。

 そのためのシステムも考えられている。倉庫の床には、全面に板が張られている。板と板の間にはすきまがあるので、壁の下の方の開口部から入ってきた空気が、甘藷の間に入ってゆくようにできている。壁にも3尺ピッチの柱間に3本の間柱が入っている。これは荷ずりとしての効果と空気の流通の効果がある。
由香
 荷ずりって何ですか。

 穀物を倉庫や蔵に貯蔵するときに、穀物が直接、土壁に触れると、いたみやすいんだ。そこで、直接土壁に触れないように,木の柱のようなものを壁に取り付けているんだ。有名なものとしては,倉敷の大原美術館は、昔の倉庫を、美術館にしているんだが,壁に荷ずりがそのまま残っているよ。
由香
 この倉庫の習志野市の説明書きに、「 角寄せ蔵ふうの倉庫 」とあるのは、柱が林立しているように見えることを意味しているんですね。角寄せ蔵についてもう少し説明してください。

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2006年07月22日

廣瀬家の明治42年のハイテク倉庫


 結論からいうと、米の方がサツマイモより保存しやすいんだ。米、つまり玄米は稲という植物のタネだよね。タネは次の世代を休眠状態で長期に貯蔵し,温度や水分などの条件を満たすと、次の世代が成長を始めるというものだね。ということは低温で低湿度の状態に保てば、成長が押さえられて、長期の保存ができることになる。植物のからだの、長期保存のための組織だから、長期保存しやすいと言うことになる。
由香
 大きな冷蔵庫があればいいと言うことになりますね。保冷庫って言うんですか。

 江戸時代や明治時代には、当然冷蔵庫はないから,米蔵を低温、低湿度に保つためには,蔵全体を密封することになる。米蔵は、分厚い土壁で囲み,窓はつけず、入口の扉も分厚い土壁と同じ扉で、外気を完全に遮断することになる。これが米蔵の特徴になる。こうすれば、翌年の夏でも、よい状態のお米が食べられるんだ。
由香
 米問屋にすれば、翌年の7月に良い状態のお米を売り出せば、もうかるということになりますね。

 ところが、サツマイモは密封するとすぐに腐ってしまうんだ。芋は生きた根の一部であって,タネのような長期保存のための休眠中の組織ではないから、呼吸をさせてやらないといけない。空気の流通がなければならない。そして、熱帯原産の植物として,厳寒期でも13度から15度の温度と,90%前後の湿度を保ってやらないといけないんだ。こういう条件を満たすには、土に埋めるか、地下に穴を掘って貯蔵するのが一番いいんだが,生産農家はできても、海岸沿いの甘藷問屋ではできない。
由香
 乾燥した北風が吹く厳寒期に、呼吸のため、外気を倉庫内に流通させながら,13度以上の温度と90%の湿度を実現するのは、当時はかなり困難だったでしょうね。

 だから、たぶん、甘藷問屋の倉庫で長期保存したのではなく,生産農家の農地で地下保存し、出荷するときに出してきて、海岸沿いの甘藷問屋の倉庫に運び込んだんだろうね。
由香
 そうすると、甘藷問屋の倉庫は、厳寒期でもこれらの条件を満たすために、米蔵とはかなり違った造りになっていたんでしょうね。

 廣瀬家の明治42年の倉庫は、それまでの甘藷保管倉庫のノウハウがつまった、当時の最先端のハイテク倉庫と言えるだろうね。
由香
 いったいどこがどう違う倉庫なんですか。

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2006年07月21日

大工棟梁邑山岩吉


 明治24年の倉庫には棟札がついていたので、建築年代が判明した。
由香
 棟札(むなふだ)って何のことでしょう。

 昔の建物には、屋根のすぐ下の天井裏に、長さ1m前後、幅20cm前後の板が打ち付けてあることがあった。その板の表には、建物の将来の平穏無事を祈る文が書かれ,裏には建築関係者のことが書かれていたんだ。
由香
 どんな建物にもつけられていたんですか。

 どんな場合に棟札がつけられたかは正確には知らない。それなりの棟梁が、それなりの建物を建てたときに限られるんだろうと思うよ。以前、古民家の話で、建築記録が残っている建物の話をしたが,棟札がついていれば確実な建築記録といえるが,その数はそれほど多くない。神社やお寺の建物には、建築、改築の記録が書かれた棟札が発見されることがよくあるよ。
由香
 明治24年の建物の棟札の裏には何と書いてあったんですか。

 たて書きの字を横にすると、「 明治24年2月26日 竹内善右衛門 大工棟梁 鷺沼村 邑山岩吉 」と書かれていた。竹内善右衛門という人物についてはわからない。邑山(むらやま)岩吉なる人は、岩さんと呼ばれて親しまれていた大工だったらしい。この人の親類が、今でも建設関係の仕事をしているという話を聞いたことがある。
由香
 100年以上前に建てられた、廣瀬家の2棟の建物の大工の名前が判明しているんですね。

 明治24年の建物の屋根裏は、大工の腕を見せつけんばかりの、材木の組合せが見事だよ。それはともかく、主屋を建てた廣瀬弥兵衛と邑山岩吉という、二人の大工の名前が判明していることは、一般庶民の家としては、珍しいことかもしれないね。
由香
 津田沼街道を歩くはずが、まだ1キロも行かないマロニエ橋を渡ったところで止まったままですが,さっきの質問に移ります。甘藷と米の倉庫の違いを説明してください。 
posted by 絢 at 22:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月20日

雑穀問屋の倉庫が生き残った


 すこし前置きの話をしよう。甘藷の特産地としてこの地域は100年以上、甘藷から恩恵を受けてきた。しかし、江戸時代は徳川幕府の規制が厳しくて,土地の売買,職業選択、居住移転などの自由がほとんどなかった。だから、甘藷がもうかるといっても、誰もが次々に船を建造したり,甘藷の倉庫を建築するわけにはいかなかった。今の国道14号も、江戸時代は浜道といわれ、台風がくれば波がかぶってくるような道だった。当時の上総海道は、この浜道の40mほど北側の廣瀬家のある通りだった。
由香
 浜道が栄えて、メインストリートに変わったのは明治以降ですか。

 明治維新で、土地の売買も,居住移転も、職業も自由になると,人々は浜道の両側に次々と建物を建てた。1本北側の上総海道は、すでに民家が建てこんでいたので,海に近い浜道に建てるほかには場所がなかったんだ。浜道はまもなく浜通りとなり、国道14号になってゆくのだけれど,このことが明治維新から50年後の、大正6年の津波の被害を拡大させる原因となってしまったわけだね。ここまでが前置きだ。
由香
 廣瀬家は1本内陸側の道路にあったおかげで、津波を、土盛りで防げたということは、廣瀬家に甘藷の倉庫があり,それが生き残ったということでしょうか。

 廣瀬家には、江戸時代の大工の自宅が現存しているという話はすでにしたが,その大工から数えて3代目が雑穀問屋を始めたんだ。そして、明治11年,24年,42年に雑穀、つまり甘藷を保管する倉庫を建築したんだ。そのうち明治24年(1891)と42年(1909)の2棟が現存している。
由香
 甘藷の特産地として農家が生産した甘藷を、廣瀬家のような雑穀問屋の倉庫に集めて保管し、すぐ裏の海から船で東京へ移送したというわけですね。そして、そういう海岸沿いの倉庫は、明治時代にはたくさんあったけれど,大正6年の津波で、ほとんどが被害を受けて、なくなってしまったということですね。

 ところが、廣瀬家の雑穀倉庫は土盛り,つまり堤防の上に建てられていたおかげで、幸運にも生き残ったということだね。2棟とも、国の登録有形文化財建造物になっているよ。近代産業遺産とか近代化遺産と言ってもいいだろうね。青木昆陽のおかげで、この地域が130年間も恩恵をこうむった甘藷、その甘藷問屋の、明治時代の倉庫であることがはっきりしている建物が、現存しているのは、この2棟だけかも知れないね。大正6年には、すでに鉄道とトラック輸送の時代になっていたので、海岸に倉庫を建てる人はいなくなっていた。そもそも甘藷の特産地としての恩恵もなくなる時期にきていた。今ではほとんど、習志野市がサツマイモの特産地であったことを知る人はいない。
由香
 地域の歴史と文化を伝える建物は、大事にしていかないといけませんね。いまのお話からしますと、廣瀬家には3棟もの、国の登録有形文化財の建物があるんですか。

 もう1棟あるから4棟だよ。
由香
 まだあるんですか。意地悪しないで教えてくださいよ。

 その件は、話がその方向に行ったときに話せばいいじゃないか。今ここで言っても話がつながらないよ。
由香
 質問があります。明治24年の建築を証明するものがあるんですか。それと、甘藷の倉庫と米の倉庫とは、どこか違いがあるんですか。

 その質問の答えは、どちらもイエスだね。
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2006年07月19日

津波の高さを残すもの


 まず大正6年の大津波の高さから説明しよう。袖ヶ浦町史には、「この台風による高潮は、東京湾では2m30cmもあったといわれ」と書かれている。東葛飾郡史では、「低気圧で海面が吸い上げられたのが3尺、それが台風の風の力で3倍の高さになる」と書かれているので,2m70cm位になる。舟橋町史では2m50cm位と書かれている。
由香
 平均すると2m50cmと判断できますが,津田沼で津波の高さを残すものって何のことでしょう。

 前に説明した、国登録有形文化財の廣瀬家の土地は、海岸へ下りてゆく斜面に土盛りをして高いほうにレベルをあわせて地盤が造られている。この地盤が堤防の役割をはたしてくれた。つまり、廣瀬家の南端の高さぎりぎりまで波がきたといわれているので,この高さが大正6年の津波の高さを伝える生き証人というわけなんだよ。
由香
 それはどのくらいの高さなんですか。

 わき道からの高さは1m80cm位だから,当時の海面からすると2m50cmというのは、津田沼においても納得できる数字だと思うよ。海岸の国道沿いの建物が、あっという間に流失したのも、当然の数字だね。
由香
 インド洋の大津波で、津波に関心が集まる時代になりましたから,津波の高さがわかる堤防,あるいは地盤が残っているということは、語り継いでゆくべきことでしょうね。

 最近は、地震や津波が多いので,千葉県でも自然災害の遺構や記録の調査を開始したらしい。廣瀬家の土地が、内湾地域の歴史上最大の被害をもたらした、大正6年の高潮の高さを伝えているという話は、本日はじめて公表されたんだから、ぜひ県の災害史のはじっこに書き留めておいてほしいと思うね。
由香
 それで、津波で生き残った建物というのはどの建物なんですか。
posted by 絢 at 19:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月18日

大正6年の大津波


 千葉県で大津波といえば、元禄の大津波が有名だよ。九十九里の方を襲った津波で,今でも千人塚、百人塚がたくさん残っているから、ものすごい数の人が亡くなっている。しかし、この津波は内湾には来なかった。東京湾を襲った最も大きい津波は、大正6年9月30日に関東を直撃した台風による暴風津波だよ。高潮とも呼ばれるが,30日の深夜から、10月1日の未明に直撃を受け,浦安と行徳は水没し,市川は駅の構内まで水がきた。
由香
 習志野市域はどうだったのかしら。

 不思議なことに,津田沼町だけが、この津波の被害の記録が残されていない。市川から袖ヶ浦町あたりまでの内湾地域は、関東大震災をも上回る被害を出しているので,詳しい被害の記録を残しているのに、旧津田沼町だけがないんだ。
由香
 ということは津田沼町だけが被害がなかったんですか。

 とんでもない。それじゃ、舟橋町史の一部を読んであげるよ。「もちろん市外の被害も大きかった。今の習志野市久々田あたりでは,海岸に通ずる道路,角屋という家より東に向える南側は鷺沼まで2、3戸を残しただけで、見渡す限り破壊流失した。」とある。この角屋というのは、国道14号京成津田沼駅入口交差点にあった家だから、当時のメインストリートの南側は流失,北側は流失または床上浸水の被害を受けたことがわかるね。
由香
 インド洋の大津波があったあとだけに、貴重なお話ですね。ほかに記録があれば教えてください。

 東京湾の最奥部が最も被害が大きかったが,被害の少なかった木更津市の市史を読んであげよう。「10月1日午前2時を過ぐる頃、かかる暴風雨の中を、にわかに津波がしゅう来した。津波は海岸から200mあたりまで押寄せて、いったんはやや引いたかにみえたが、さらに勢いを盛り返し、みるみる町の大半は床下浸水,海岸地帯の住家は、ことごとく床上まで浸水し,はなはだしきは鴨居近くまでも,波に洗われるにいたった。」とある。木更津は死者6人、流失全半壊家屋107棟と比較的被害が軽くてもこんな状況だった。鷺沼などは下駄屋さん一家だけでも7人全員が死亡したと、舟橋町史に書かれているんだから、津田沼町はもっと大きな被害が出ているはずだよ。
由香
 インド洋のときのビデオを見ているようですね。もっと記録がありませんか。

 当時の読売新聞の記事を読んでみようか。「浦安のごときは最も悲惨なもので、245の部落は全滅して全村家なく、海上の漁船が全部陸上に打ち上げられて、それが重なり合って船の市街を形造っている有様だ。」とある。さらに「千葉町は海岸に面せる市街全部破壊され、」とある。10月17日の読売新聞に出ている被害状況は、関東1都4県で死者行方不明約3千人、全半壊流失家屋約6万棟、床上下浸水家屋22万棟という、すさまじいものだった。これによって、東京湾奥部の内湾に面している建物のほとんどがなくなってしまったんだ。ここでは千葉県内のことを話したが,死者も被害家屋数も、人口密集地の東京が一番多かったことを忘れてはいけない。
由香
 たいへんな大災害だったんですね。でも、今では誰も知らないですよ。関東大震災なら誰でも知っているのに,大正6年の高潮の話を知っている人はいませんよ。

 だから、こんなに詳しく話をしたんだよ。インド洋の大津波もあったことだし、災害の足跡を忘れずに記憶し,記録しておくことが重要なんだ。旧津田沼町はそれを全くやっていなかったんだ。
由香
 それでは質問します。インド洋の大津波では、その高さを後世に伝えようと、波の高さと同じ高さのポールを立てて示していると聞いています。大正6年の波の高さを伝えるものが,津田沼に残っているんでしょうか。そもそも何メートルくらいの波だったんでしょうか。それと、海岸には甘藷を中心とした物資を海上輸送する為の倉庫群があったと思うんですが,すべて破壊されてしまったんでしょうか。

 それがどちらも奇跡的に残っているんだよ。
由香
 そんな話聞いたことがありませんよ。本当ですか。




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2006年07月17日

ゴミは甘藷にどう役立つか


 ここでは江戸時代のゴミの話をしているんだから,現代のゴミといっしょにしないでほしい。当時はどんなゴミがでたと思うかい。
由香
 家庭から出るゴミといえば、食べ物の残りか野菜のくず、それに紙くずに、古着、古いこわれた桶や籠、雑草もあるかもしれない、あとはどんなものがあるかしら。

 工事現場ならどうだろう。
由香
 当時はすべて木と紙と草屋根の家だから、木片に竹、紙くず程度でしょうか。瓦やくぎは貴重品だから、ごみにはしなかったでしょうし、土や石はごみとしては出さないでしょう。

 古着はもめんがほとんどだろうから、こうしてみるとほとんどが植物なんだよ。だから当時のゴミは腐葉土のような肥料になったんだ。
由香
 そうすると、こうしたゴミからできる肥料が,米よりも甘藷の肥料に適していたということでしょうか。

 そのとおりだね。当時は便所からでる糞尿も、ゴミも農家にとっては貴重な肥料源だったんだ。
由香
 しかし、広大な面積で栽培する甘藷の肥料は、大量に必要だったでしょうに。どこから糞尿やゴミを持ってきたんでしょう。

 江戸だよ。甘藷を船に積んで、江戸の問屋に渡すと、帰りの船はカラになる。そこで、江戸の糞尿やゴミをいっぱい積んで戻ってきたんだ。
由香
 江戸時代の港は津と呼ばれたそうですが,このあたりに津があったんですか。

 正式に津と呼ばれたのは、このあたりにはなかったが,谷津,久々田,鷺沼のそれぞれの海岸から、満潮の時に、船が通れる深み、つまり澪(みお)を伝って,江戸へ往復していたんだ。
由香
 そうすると、海岸沿いには、江戸の糞尿とゴミがたくさん置かれていたんですか。

 糞尿はすぐに農家に引き取られていったようだが,ゴミはしばらく海岸に置いたままになっていた。ゴミ河岸といわれ、船を所有する有力者の貴重な財産だった。
由香
 どうしてゴミが貴重な財産だったんですか。

 江戸には、大名の屋敷がたくさんあったから,ゴミの中からお宝が出てくるんだ。特にくぎなどの金属は、お金になった。お宝捜しをした後は、肥料になってゆく。市域の農地の土の中から、泥めんこといわれる子供の遊び道具がたくさん出てくるのも、江戸のゴミや糞尿に混じっていたからだろうね。
由香
 甘藷を江戸へ運ぶようなったのは、天明の大飢饉の後でしょうから,1700年代の終わり頃からでしょうね。いつ頃まで、ゴミ河岸は存在したんでしょうか。

 鉄道で甘藷を運ぶようになったのは、房総鉄道ができて、津田沼駅ができた明治28年からだよ。ただ、最初は船の方が運賃が安かったので,実際は明治40年近くまでは、かなり船が利用され、ゴミ河岸も存在したようだね。その後は次第に、明治43年に複線化された鉄道とトラックに荷物を奪われていった。
由香
 明治40年は1907年ですから,100年以上も、甘藷の特産地として栄えたんでしょうか。

 甘藷自体は栽培が容易だから、津田沼だけでなく、県内全体に産地が広がっていっている。利益を独占したということは全くないよ。この地域全体が、1830年代の天保の大飢饉にも被害を受けることがなく,幕末に全国で多発した一揆や打ちこわしもほとんどなかったのは、甘藷のおかげで経済的に安定していたからだろう。だから幕末に昆陽神社が幕張にできたんだ。
由香
 まえに瀬山邸のときに、甘藷からでんぷんを製造する技術が開発され、明治後期から大正時代にでんぷん御殿が建ったというお話がありましたから,甘藷は通算すると130年間くらいは、地元を潤してくれたといっていいんでしょうか。

 そうだね。昭和に入ると甘藷はいたるところで栽培されるようになり,でんぷんの原料も東南アジアから安い原料が輸入されるようになったので,甘藷の恩恵はほとんどなくなってしまっている。もちろん食料としては役に立っていたが。
由香
 埋立で,今では想像もつきませんが,国道14号のあたりが海岸で、船で甘藷を江戸,東京へ出荷していた時代の建物や遺構は残っていないのでしょうか。

 海岸沿いの建物は大津波で流されてしまって,ほとんど残っていない。
由香
 インド洋の津波のような津波がこのあたりにもあったんですか。
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2006年07月16日

砂地は危険な地盤か


 由香ちゃん、砂浜で思いっきり走ったらどうなる。
由香
 思いっきり走れませんよ。砂の中に足がもぐってしまいますから。

 砂と砂の間に空気があり、足で砂を押しても空気バネのように、空気が衝撃を吸収してしまうんだろうね。それと地面を下へ押しても、砂は横へも動くので、足の力がまっすぐ下の方へ伝わらないんだろう。これを地震で考えると、下から砂地を突き上げる力が働いても、空気がクッションになる。左右に振る力が働いても、空気があるので、上へ行くほど振れが減殺されるんじゃないだろうか。地盤を形成している砂の層は、実際にはもっと硬く締まっているはずだから、砂の厚さや硬さによっては、地震に強い地盤だといわれているようだよ。
由香
 砂地は高い建物や液状化が怖いんではないでしょうか。

 江戸時代に高層ビルや高層の団地はなかったので,液状化も関係ないでしょう。当時は木造の草葺き平屋しか建てられなかったんだから、建物自体も軽かったから関係ないよ。
由香
 今の話をしているんですよ。

 今は、構造計算をした上で建てているんだから,偽装がなければ大丈夫でしょう。とにかく砂地だからという理由で、不安になる必要はないということだよ。要は個々の建物の耐震性の問題だよ。
由香
 わかりました。それでは、津田沼が甘藷の特産地になったキーワードの、ゴミについてお聞きしましょうか。
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2006年07月15日

砂浜が隆起して広がった市域


 東京湾の最奥部は、今はほとんど埋め立てられて、海岸線など何キロも行かないと見えないが,昭和40年頃までは、国道14号の少し先までが海岸で、遠浅のきれいな砂浜だった。
由香
 いつの時代に、砂浜が形成されていったんですか。

 市史を見ると、縄文時代の沿岸流が、砂を運んできたと書いてある。縄文時代は1万年もあったから、東京方面から千葉のほうへ流れる海流で、厚い砂地の地層が形成されたようだ。これがたびたび隆起した。
由香
 砂浜がどんどん隆起して、かって海岸だったところが、次々内陸になっていったんですね。つまり東京湾は昔はもっと大きかったのが、隆起によって小さくなっているんですね。

 たとえば、房総半島先端の野島崎は、昔は島だったが,関東大震災の隆起で地続きになってしまった。
由香
 千葉県に住んでいると、しょっちゅう地震がありますし、歴史上の大地震もたくさん記録されていますから,砂浜が隆起して砂地の土地が広い範囲で形成されていったということは理解できますね。

 現在の習志野市は内陸部の純農村だった地域も少し入っているが、江戸時代の谷津村,久々田村、鷺沼村はみんな海に面した村だった。だから、水田に適した土地は少なかったと思われるよ。統計が残っている明治初期のころで、農業生産の8割が甘藷だったから、農地の8割が砂地だったかも知れないよ。
由香
 津田沼が甘藷の特産地になっていった理由は、縄文時代の沿岸流で形成された砂地が、地震のたびに隆起し、新たに形成された砂地も地震で隆起した。これを繰り返して砂地の市域が形成されていったんですね。次の問題はゴミですが,その前に質問。砂地の上に建つ習志野の建物は、地震に弱いんではないんでしょうか。砂上の楼閣というじゃないですか。ああこわい。

 砂の上の建物はこわいだろうね。ところが、違うんだ。
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久々田村は水田の多い村か


 甘藷の生産が拡大されるうえで、砂がどう関係するか。由香ちゃん、砂地で稲が育つと思うかい。
由香
 育つわけないでしょう。稲は、水をはった水田で育てるんですから,砂では水が吸い込まれて、なくなってしまうでしょう。

 ところが、甘藷は砂地のほうが良く育つんだ。これで答えがわかってきただろう。
由香
 つまり津田沼は砂地だから、米より芋のほうがたくさん生産されたといいたいんですか。

 察しがいいね。
由香
 ちょっとまってくださいよ。津田沼の江戸時代の名前は久々田村( くぐたむら )だったんでしょう。田んぼが延々と続いていたから、久々田という名前になったんでしょうに。

 そこが問題だ。そういう人もいるが,最も有力な説は、クコ田からきたという説だよ。つまり、水田のまわりに健康食品で有名なクコの赤い実がたくさんなっていて、その景色が印象的だったんで、クコ田と呼ばれるようになり,クグタとなまったという説だよ。
由香
 そういえば、友人の40代のお母さんが,子供の頃に、赤いクコの実をよく見かけたといっておられたのを思い出しましたよ。昭和40年代でもクコがあったんだから、江戸時代はたくさんあったかもしれませんね。そうすると、津田沼はやっぱり砂地なんですか。どうして砂地になったんですか。地震に弱いんじゃないんですか。

posted by 絢 at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月13日

甘藷はどうして飢饉を救うのか


 飢きんによって、甘藷の生産が拡大したというのは理解しやすいだろう。もともと飢きんの時の食料として、関東地方に、青木昆陽によって導入されたんだから。
由香
 その飢きんというのは、いつの飢きんのことなんですか。

 天明の大飢きんの時だよ。天明2年というと1782年だが,この年から天候が悪くなり、天明3年にはアイスランドのラキ山と岩木山、浅間山が大噴火をした。これで空中には火山灰が飛び散り、以後数年間冷夏となった。このためお米がほとんど収穫できなくなったんだ。
由香
 でも考えてみると,冷夏になると、お米はとれないのに、甘藷はどうして収穫できるんですか。どこが違うんですか。

 当時の日本の米(稲)は、秋の収穫時期までに、高温が続き、その毎日毎日の高温の合計が一定量に達しないと実らない性質だったんだ。稲によっては菊の花のように、日照時間が短くなると自然に花が咲き実る種類のものもあるが,日本の稲はそうではなかったんだ。だから、冷夏になると、温度の積算量が不足するため、実らないんだ。
由香
 サツマイモはやせ地でも育つといいますから,どんなところでもたくさん芋を作る能力があるんですね。

 サツマイモは、葉で作った養分,つまり澱粉を地下の芋に貯蔵しているんだ。花を咲かせているわけじゃない。だからある程度の葉があれば、たくさん澱粉を作ることができる。花ではなく葉の数の問題なんだ。
由香
 やせ地では、葉が繁らないんじゃないですか。

 植物に必要不可欠な3要素はチッソ、リンサン、カリだね。そのうち葉っぱを増やすのはどれか知っているかい。
由香
 チッソです。

 やせ地には窒素分もない。ところが甘藷には、空中にいくらでもある窒素を体内に取り入れる能力があるんだ。
由香
 だから、どんなやせ地でも、空中の窒素を取り入れて葉を増やし,澱粉をたくさん作ることができるんですね。

 だから、大げさに言えば、どんなに火山が噴火しようと、空気がある限り、サツマイモは収穫できるんだ。
由香
 目からうろことはこのことでしょうか。こんな話、どんな本にも書いてないでしょう。

 書いてあるんじゃないかなー。それはともかく、それまで毒があるといううわさのために、生産が拡大しなかった甘藷が,天明の大飢饉で、全国で人がばったばったと死んでいったときにも、幕張を中心に、甘藷を作っていた周辺の人々は、一人も餓死する人がいなかった。そのため今の千葉市、習志野市、八千代市、船橋市と生産が拡大し,甘藷の特産地になっていったんだ。
由香
 特産地ということは、甘藷を販売していたということですか。

 江戸へ船で運んで販売し、たいせつな現金収入源になっていた。自給自足がほとんどの地方の人々にとって、現金収入源があると江戸の進んだ文化も手に入れることができたんだ。
由香
 まさに甘藷さまさまですね。飢きんによって、甘藷の生産が拡大していったことは良くわかりました。それじゃ、砂とゴミはどういう関係があるんですか。まったく想像もつきません。

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2006年07月12日

サツマイモの本家本元

由香
 甘藷って,えーと、サツマイモのことでしたっけ。

 そうだね。甘藷は中国での言い方で,琉球に伝わると琉球いもになり、薩摩に伝わってサツマイモになった。
由香
 でも、習志野市の特産品はニンジンではないんですか。

 現在は,千葉県はニンジンの大生産地だが、江戸時代から昭和初期までは、津田沼は甘藷の特産地だった。
由香
 ちょっと待ってください、サツマイモというと川越じゃないんですか。川越へ行くと、今でも、おみやげ物屋さんで,名産品という感じで売っていますよ。薩摩芋の資料館までありますよ。このあたりではどこも、あんな感じでは売っていませんよ。八百屋さんに置いてあるだけです。ピーナッツならわかりますけど。

 なんといっても,甘藷の本家本元はこっちなんだよ。甘藷を薩摩から関東地方へもってきたのは,誰だか知っているだろう。
由香
 青木昆陽でしょう。甘藷先生で有名じゃないですか。

 その昆陽先生が、小石川でサツマイモを試作し、1735年に実地で栽培をしたのが、お隣りの幕張なんだよ。九十九里の方でも試作したが,失敗したんだ。幕張でも、悪いうわさが流れて、最初はあまり生産が拡大しなかった。
由香
 サツマイモはとってもおいしいのに、どうして悪いうわさが出るんですか。

 九十九里の方ではその年、漁業が不漁だった。その原因を甘藷のせいにされたんで、誰も食べなくなっていったんだ。幕張でも、甘藷には毒があるといううわさが流れたんで,あまり生産は拡大しなかった。しかし、幕張の周辺の人達は、親類の家などで実際に甘藷を食べて、おいしいことや毒がないことを体験していたので、狭い範囲では栽培が続けられていた。川越には、幕張で試作されてから16年後に、千葉県市原市の村から伝わったことになっている。
由香
 そうするとこっちが、関東地方で最初に薩摩芋が伝わったところということになるんですね。

 だから幕張には、青木昆陽を祭った昆陽神社がある。道路工事の関係で、しばらく取り払われていたが,平成18年の夏に、つまりつい最近、新しい社殿が完成した。道路をはさんで反対側には、甘藷試作地の石碑も建っている。まさにここが関東でのサツマイモの原点なんだ。サツマイモが好きな人は、ぜひ昆陽神社へ行ってほしい。京成幕張駅のすぐ前にありますよ。
由香
 でも、狭い範囲でしか広まらなかったサツマイモがどうして、生産が急拡大したんですか。どうして、津田沼はお米じゃなく、甘藷の特産地になったんですか。津田沼は、昔は久々田といったんだから、誰がどう考えても田んぼの稲作でないとおかしいんじゃないですか。

 その問題の答えのキーワードは、飢きんと砂とゴミだよ。
由香
 飢きんはなんとなくわかりますが、砂とゴミは理解できませんね。
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2006年07月11日

松井天山の津田沼町鳥瞰図


 このあたりは松井天山の昭和3年の絵図で見ると、建物はなく、畑だった。
由香
 松井天山という人は、千葉県内各地の昭和初期の絵図をたくさん書き残していて、たいへんに貴重な記録ですが,どうしてこれだけたくさんの絵を書いたんでしょう。

 商業目的だったらしい。天山の絵図の裏には、商店の広告がたくさん掲載されている。つまり、今でいえば広告代理店のような人がいて,広告掲載料をいただいて、絵図というちらしを配布していたんだろう。
由香
 絵地図を拡大鏡で良く見ると、詳しく商店の名前や建物を書き込んであるところと,ごく簡単にカタカナで表記しただけの商店と、いろいろありますね。

 良く見ているんだね。たしかに千葉県内の人は、松井天山の絵図は詳しく見ていると思うよ。自分の家が昭和3年にどうだったかが、書かれているんだからね。由香ちゃんが今言ったような、書きかたの違いは、広告掲載料の金額の違いによるといわれている。たくさん払ってくれたお得意様には、絵図にも詳しく丁寧に書かれているというわけだね。
由香
 天山の絵図はどこで見られますか。

 県庁の近くに県公文書館がある。ここで実物大の複製が見られるよ。昭和3年当時、自分の家があった人は、ぜひ実物大の複製を見るといいよ。道路が拡張される前の、家の姿が見られるよ。船橋西図書館でも見られるかもしれないね。
由香
 ところで、このあたりは何を作っている畑があったところなんですか。

 なんといっても甘藷(かんしょ)だよ。

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2006年07月10日

習志野商工会議所の外壁


 習志野商工会議所の建物を見ていると、建築の歴史を感じるんだ。昔は、こんな外観の建物は建てなかった。
由香
 何を言ってるんですか。何の変哲もない、四角い建物じゃないですか。どこにでもありますよ。どうして昔はなかったと言うんですか。

 便所タイルだよ。
由香
 便所ってなんですか。

 トイレのことだよ。昔の便所は目の細かいタイルが貼られていた。だから目の細かいタイルを建物の外観に貼ると便所をイメージしてしまうので,使われなかったんだ。しかし、最近ではトイレでも、目の細かいタイルを使うことはなくなったし,便所という言葉自体使わなくなってしまった。
由香
 目の細かいタイル状の外観でも、イメージが変わったので、建築の外観に使われるようになったという話ですね。そう言えば津田沼駅南口の駅ビルのホテルメッツの建物も、目の細かいタイル状の外観でしたね。

 戦後、日本の高度経済成長期に建築界のスターになったのは、丹下健三だった。かれはコンクリートの打ちっぱなしに美学を感じていた。しかし、爺は、灰色のイメージしかないコンクリートの打ちっぱなしに興味がもてなかった。そこに登場したのが,丸の内の東京海上ビルだった。昭和49年の建築で,格調高い茶色の大きなタイルが特徴で,前川国男の代表作になった。
由香
 これ以降、建物の外観に、目の大きいタイルを貼るのが流行したと言うことですね。そして、当時は目の細かいタイルは使われなかったけれど,時代が変わり、イメージも変わって,習志野商工会議所のような外観の建物が誕生してきたと言う話ですね。こんなところで,日本建築史の勉強ができるとは思いませんでした。

 世界の都市を見てくると、日本の最近の建築ほど味わいのないものはない。古い建物を残す重要性は、日に日に高まっているが,まだまだ日本人にはわかっていないようじゃ。あそこに見える津田沼小学校の円形校舎も、すでに文化財級の価値がある。習志野市内は、古建築の宝の山がいっぱいある。それを市民にもその他の人達にもわかってほしいんだ。
由香
 それでは次の織戸村か甘藷の話をお願いいたします。
posted by 絢 at 21:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月09日

必勝軒からマロニエ橋へ

由香
 先を急ぐより、街道沿いの建物を少しは宣伝してやってくださいよ。

 津田沼駅から南へ出て,千葉工大の次が、行列のできるラーメン店の必勝軒、その次はauショップだね。
由香
 携帯電話屋さんですか。どこにでもありますね。宣伝のしようがありませんね。

 いや、ここは少し違うんだよ。いろいろ景品をくれるんだ。ほら店の前を見てごらん。うちわが置いてあるだろう。ティッシュペーパーもある。店の中に入ると、季節によってもっと違ったプレゼントをくれるんだ。とにかく1年中、のぞいてみてこれほど損のないauショップはめったにないよ。
由香
 ということで、どうせ携帯電話屋さんへ行くなら、このお店を利用すれば,季節季節にいろいろ違ったプレゼントがもらえますので,よろしくお願いします。

 その隣は、古本屋さん。いまどき古本屋さんは珍しくなっているので,ぜひお立ち寄りください。その上には、婚礼衣装の貸衣装屋さん。その先は、習志野郵便局だ。広い敷地にゆったりと局舎が建ち,裏には立派な社宅もついている。理想的な職場環境と言っていいだろうね。その先はマロニエ橋だ。京成電鉄の上を越える橋で、この橋のおかげで、市内の交通渋滞はかなり緩和されたんだよ。
由香
 マロニエ橋を越えると、そのまままっすぐ道は続いていますが,ここで左折するんですよね。

 そうだね。ここで左折するとすぐに習志野商工会議所があり、少し行くと右手に津田沼小学校が見えてくるが、実は少し寄り道をしたい。
由香
 どこへ行くんですか。

 マロニエ橋を渡ったところで,織戸村と甘藷と,習志野商工会議所の話をしたくなったんだよ。
由香
 ここに習志野商工会議所がありますから、それから話していただけますか。すぐそばですから。
 
posted by 絢 at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月08日

習志野市域の和算は最上流だった。


 廣瀬秋之助が学んだ、西船の御代川広有については、船橋市ではかなり調査が進んでいた。広有は算学者、高橋左内の教えを受け、高橋左内は、最上流算術の創始者、会田安明の教えを受けたことになっているので、秋之助が学んだ和算は、有名な関孝和の流派とは少し違う、最上流ということになる。
由香
 習志野市内にも、江戸時代の和算の一流派の流れが入っていて,それが会田安明の最上流であることが判明したのだから,市史にもまったく触れられていない、新事実の発見ということになりますね。

 会田安明は、たくさんの和算の本を書いているが,代表的な本の書名は、「最上流算法天生法指南」という。秋之助の8冊の蔵書のなかには「天生方指南 巻の一」と「天生方指南図解術 巻の壱」があるから、書名を見ても、会田安明の流れをくむ算術であることがわかるね。
由香
 習志野市教育百年史にも、新しい項目が加わりましたね。ところで、秋之助は8冊の和算の本を書き写したと言われましたが、いつのことだったんでしょう。

 書写本の最後に「明治14年春1月於南窓写之」と書かれていたので、1881年であることがわかるね。そして、1865年生まれの秋之助が16歳の頃には久々田に戻ってきていたこともわかるね。
由香
 津田沼駅周辺には予備校が多いですねと言う話から,明治初期に久々田にも廣瀬秋之助の漢学塾があったこと、秋之助の学んだ和算は会田安明の最上流であったことという、市の教育史の新発見の話になってしまいましたね。

 津田沼街道を歩くというテーマなのに,駅からまだ200mくらいしか歩いてないね。先を急ごうか。
posted by 絢 at 18:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月07日

御代川広有の筆子塚


 御代川広有の筆子塚に刻まれていた秋之助以外の名前は、谷津:矢野豊吉、矢野石次郎、織戸新左衛門、織戸岩蔵、大久保:市角助五郎、市角長左衛門、実籾:斎藤熊次郎の7名だ。これを読んでいる子孫の方がいたら、そしてもしこれらの子孫の家に、古い和紙の書写本があれば、御代川塾のものだと思っていいと思うよ。
由香
 石碑のある場所はどこですか。

 筆子塚がある場所は、西船橋の念仏堂だよ。その墓地の中の,最も国道沿いの方で、奥に行ったほうに,高さ約2、5メートルの立派な碑があるよ。
由香
 御代川塾の、テキスト名は?

 「改正 日要算法図解 地方丙」、「算法 天元術 天」、「算法 天元術 下巻」、「点算術草稿」、「天生方指南 巻の一」、「天生方指南図解術 巻の壱」、「算法位術 全」、「算法開平術併開立術 全」の8冊だよ。
由香
 この内容からすると和算の本ですね。和算はいろいろな流派があったんじゃないんですか。流派はわからないんですか。
posted by 絢 at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月06日

習志野市域から和算塾に通う

由香
 秋之助が通ったその和算塾も、東京にあったんですか。

 この和算塾は、実は西船橋にあった。後でわかったことだが、船橋では郷土史上かなり有名な私塾だったんだが、習志野市の関係者はまったく把握していなかったんだ。しかし、調べてみると、現在の習志野市の谷津,大久保、津田沼(旧久々田)、実籾からも歩いて西船まで塾に通っていたことが、秋之助の蔵書からさかのぼるうちに判明したんだ。
由香
 秋之助が東京から久々田に戻ってきた後に通った、と言うことですね。秋之助の蔵書には何と書かれていたんですか。

 実は、秋之助の蔵書の中に8冊の、手で書き写した本があった。そのうち1冊には、「澪川先生著」と書かれ、もう1冊には、「御代川先生著」と書かれていた。どちらも「みよかわ先生」と読めるが,習志野市の関係者には「みよかわ先生」がいかなる人物であるか知る人がいなかったんだ。そこで船橋市郷土資料館に問い合わせたところ、これが御代川広有(みよかわこうゆう)であることが判明したんだ。
由香
 習志野市の教育史にとって、新発見と言っていいんでしょうか。

 習志野市域に住んでいた青少年が、片道歩いて1時間以上もかけて西船の私塾に通い、しかも、塾長が亡くなった後、明治23年3月13日の紀年銘のある大きくて立派な筆子塚を建立していたという事実。その建立発起人の筆頭が廣瀬秋之助であり、その他7人の市域の住民の名が発起人に連なっているのだから、このことだけでも、習志野市の教育百年史に、別枠をもうけて書かれても良いことだと思うよ。
由香
 しかも、蒲生塾と同様に、御代川塾で使われていたテキストも8冊残っているんでしょう。なにしろ、今から110年以上前の時代の話なのに、テキストによって授業の内容が明確にわかるんだから、教育を研究する人にとっては、すばらしい発見ですね。市域の発起人の全員の名前,8冊のテキストの書名,それから筆子塚のある場所を教えてください。
posted by 絢 at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月05日

蒲生塾とは


 蒲生塾は蒲生重章(がもうしげあきら)というひとが塾長だった。新潟県の出身で、幼くして両親を失い,苦労と苦学の末、江戸の飯田町で有為塾という漢学塾を開いた。著書は八つあって、「近世偉人伝」は当時の人に広く読まれたと記録されている。この「近世偉人伝」の評判が良かったので,明治12年に書かれた「近世佳人伝」には3人の門下生が、後書きを書いている。その中に廣瀬秋之助の名前も入っているんだ。蒲生重章は明治時代の、ちょっと知られた文化人の一人だったんだね。
由香
 漢学塾は明治20年以降急速に衰退したと言われましたが、蒲生塾はいつまであったんですか。

 蒲生重章は、開国論を唱えて幕府から追われている人を、何人もかくまったと言われている。そのため、維新後は、新政府から厚遇され、いろいろな公職についている。従って,有為塾は彼が69歳で亡くなる明治34年まで続いている。
由香
 廣瀬秋之助は蒲生塾時代のテキスト類は残していたんですか。

 廣瀬秋之助は久々田で漢学塾を開いたぐらいだから、廣瀬家にはその当時のテキストがそのまま残っている。東京の漢学塾は、関東大震災,第2次大戦でテキストの多くが焼失している。1つの漢学塾のテキスト類がまとまって残っているのは珍しいかもしれないね。
由香
 廣瀬秋之助の蔵書の中から、なにか新発見はなかったんですか。

 それがあったんだ。秋之助は漢学塾だけでなく,和算塾にも通っていたんだ。
posted by 絢 at 21:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月04日

蒲生塾で学んだ秋之助


 明治維新の3年前に生まれた、廣瀬秋之助に関する記録によると、「幼くして東京蒲生塾の最精漢籍に学ぶ」と書かれている。つまり、明治初期に久々田村の子供が、東京の漢学塾に寄宿して勉強していたという、今まで知られていなかった事実がわかったんだ。
由香
 維新当時、東京の漢学塾に入るということは、今で言えば海外に留学するくらいなことだったでしょうね。

 最近は、安易に誰でも留学できるが,当時はもっとたいへんだったと思うよ。秋之助は、士農工商の身分制から開放され、名前も江戸から東京に変わったばかりの維新の新風を胸一杯に吸い込んで、久々田村へ帰ってきたんだね。
由香
 当時は、浮世絵に出てくる江戸の町そのものだったでしょうね。秋之助は、最も美しい東京を見てきたんでしょうね。すべてが今で言う伝統的建造物だったんだから。

 秋之助はその後、津田沼町会議員、名誉助役、千葉郡会議員、久々田漁業組合長などを歴任した、地元の名士になっている。性格は温容で、すこぶる義気に富む人物であったと記録されている。
由香
 東京で勉強しただけのことがあったということですね。ところで、東京蒲生塾で学んだといわれましたが,蒲生塾ってどんな塾で、どこにあったんですか。
posted by 絢 at 20:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月03日

大工の廣瀬家の4代あとは漢学塾


 廣瀬秋之助が漢学塾を開いていたという記述があったので、調べてみたら,先に説明した、国の登録有形文化財になっている廣瀬家のことだった。
由香
 江戸時代の大工の自作の自宅という、あの廣瀬家のことですか。

 そうなんだ。前にも説明した,中山法華経寺の初代仁王門を建てた大工、廣瀬弥兵衛から数えて4代目が秋之助だった。この人が漢学塾を開いていたんだ。
由香
 廣瀬秋之助はどこで漢学を学んだんでしょうか。

 廣瀬家に残された秋之助の蔵書から、今まで、全く知られていなかった、幕末から明治初期の教育事情の一端が明らかになったんだ。
由香
 市の発行している本には全く書かれていない話だから、わくわくしますね。

 この話は、津田沼の史実を伝えるために話している。瀬山とみさんが書き残した事実を、もっと深く調査して、将来の郷土史家の、さらに深い研究の役に立つようにと思って話している。地元以外の人には面白くない話だろうね。
由香
 ということは、廣瀬秋之助の蔵書から、もっといろいろなことがわかってきたんですね。

 いもづる式というやつだね。

posted by 絢 at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月02日

久々田に漢学塾があった

由香
 瀬山とみさんて、14号沿いの瀬山邸の方ですか。

 そうだよ。瀬山とみさんは、明治34年(1901)に生まれ、平成8年(1996)に亡くなられた方で、生涯のほとんどを津田沼で過ごした教育者だった。女子師範を主席で卒業した秀才だったが、跡取むすめなので地元の津田沼小学校の教師を長く勤め,退職後は市の教育委員や多くの役職を勤めた方だ。津田沼の歴史上、最も地元に貢献した女性だね。
由香
 どういう本を書かれたんですか。どこで見られますか。

 市内の図書館の郷土資料のところにはたいてい置かれている,「久々田風土記」と自叙伝「あしあと」の2冊だよ。これらの本の中には、市史をはじめとする市が発行する本には書かれていない、久々田、すなわち津田沼の江戸末期から昭和時代のようすがいくつか書かれている。その中から、教育に関する新事実を話してあげよう。
由香
 誰もが、はじめて聞く話なんですね。

 それほどたいそうなもんじゃないが,「あしあと」の中に、とみさんの実父で、明治4年生まれの三代川長吉が若い頃、「久々田で唯一の漢学塾を開いていた廣瀬秋之助氏のもとで勉学していた。」と書かれている。
由香
 つまり、津田沼には明治の初期に漢学塾があり、そのことに触れた記録がいままで全くなかったということですね。

 そのとおり。漢学塾は、江戸時代は、武士や一部の庶民の子弟を教育するところで,寺子屋よりグレードが上だった。寺子屋は各地にあったが,漢学塾は武士の多い江戸に集中していた。明治時代になると、学制が公布され、寺子屋が次々と小学校に変わっていった。そうした、時代の変化の中で、漢学塾は、明治になると衰退し、塾長が亡くなると消滅してしまうところがほとんどで、ごく一部の漢学塾が、普通の学校に変わって行ったんだ。
由香
 明治初期の漢学塾で,普通の学校として今でも続いているところは、どんなところですか。

 幕末から明治10年代の漢学塾名簿の中から、われわれも聞いたような名前だけを書くと,跡見学校、二松学舎、桜陰家塾などあるが、100以上あった漢学塾も明治20年を過ぎると急速に消えていった。
由香
 廣瀬秋之助氏の漢学塾も短命に終わったということなんでしょうか。

 廣瀬秋之助は慶応元年の生まれだから、仮に18歳で塾を開いたとしても、明治15年の開塾になる。すでに学制公布から10年近く経っているので,漢学塾が衰退する直前の時期にあたる。
由香
 かりにこの塾の名前を廣瀬塾とすると、この塾のことはどこまでわかっているのでしょう。歴史的な意義はどんなところにあるんでしょうか。
posted by 絢 at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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