2006年08月31日

荒屋敷台とは


 習志野商工会議所から、津田沼小学校の前を通って少し行くと、信号がある。ここから右(南)を見ると、急な上り坂になっている。菊田保育所の裏の道にあたるね。
由香
 信号からまっすぐ行くと、京成津田沼駅へ行きますが、右を見ると確かに、急な坂ですね。坂の上にはうすいピンク色の大きなマンションがありますね。このあたりでは一番高い場所にあるようだから、ながめの良いマンションみたいですね。

 ここはかって、つまりマンションが建つ前は、内田家の別邸があった場所で、地元の人は、荒屋敷台(あらやしきだい)と呼んでいた。昭和40年代までは、誰もが知っている家だったが、今では、荒屋敷台という言葉自体が消えてしまったね。
由香
 こわそうな名前ですね。荒れ放題の幽霊屋敷があったんでしょう。

 荒という字は、人気(ひとけ)のないところを意味していた。昔は、高いところは風雨が強く吹きつけるので、あまり家を建てることをしなかった。家は、寒い北風や北西風を防いでくれる、高台を背にして建てたものなんだ。だから、昭和3年に描かれた松井天山の絵図にも、内田家別邸の周囲には全く住居が描かれていないよ。
由香
 昭和3年には、もうあったんですか。古いおうちだったんですね。

 この建物は、赤別荘とも呼ばれ、洋風赤瓦のすてきな建物だったそうで、商業目的で描かれ、掲載料を取っていた天山の絵にも、詳しく描かれている。個人の別宅なので、掲載料を取ったとは思えないが、ランドマーク、つまり町の目印のような家なんで、詳しく描かれたんだろうね。
由香
 今、天山の津田沼町の絵図を見せていただいていますが、荒屋敷には、鯉のぼりを立てる高い棒のようなものが描かれていますね。

 それは、風車だよ。ここは習志野市内でも標高がかなり高いところなんで、井戸は、かなり深く掘らないと、水が出なかった。そこで、井戸の上に風車を立てて、風力でピストンを動かして、水を汲み上げていたんだ。このへんで、風車の家といえば、この建物を意味していたんだよ。
由香
 珍しい風力揚水装置だったんですね。今でも残っていたら、文化財でしょうね。絵が残っているだけでも貴重ですね。

 写真もあるよ。習志野市史、別編、民族291頁に内田家別邸の写真が出ている。大きな風車も写っているよ。
由香
 今では、うすいピンク色のマンションになっていますが、昭和3年頃から40年代まで、風車の家で知られていたんですね。

 いや、皇族で有名だったんだよ。
由香
 こんなところに、皇族がおられたんですか。

 津田沼は、皇族がたくさん住まわれたところだったんだよ。
由香
 どこに、御用邸が建っていたんですか。どこですか。そんな話、聞いたことがありません。

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2006年08月30日

白鳥義三郎市長の業績とは


 白鳥市長は都市建設をぐんぐん推し進めた。
 習志野市のホームページでも読めるが、新習志野散策 bV5 に、こう書いてある、「特に目を引くのが、建設機械を購入して市が直接都市計画を推し進める、という方法です。当時の市役所の土木課は別名、「習志野建設部隊」と呼ばれていたそうです。都市改造を行い、小さくとも効率のよい活力あふれる中小都市を建設しようという、白鳥市長の理想から、半世紀が過ぎました。」
由香
 市の本にも、戦後すぐに市営水道、市営ガスの工事、多くの小学校、中学校と習志野高校の各校舎建設、市庁舎、市民会館、図書館、公民館の建設、給食・視聴覚・教育・清掃の各センター建設、公園、体育館、球技場の建設と次から次と、公共施設を建設していることが書かれていますね。今なら、箱もの行政として批判されるでしょうに。へたをすれば、夕張市のように破産していたかもしれませんね。

 習志野市は、実は人口3万人という、市制の最低人口に、足りなかったのではないかというほど、日本でも最も小さい市だった。したがって、財政規模もたいへんに小さい市だった。その小都市が、大胆にも、次から次と莫大な借金をして、次から次と公共施設を建設していったんだ。今なら恐ろしくてとうていできない政策だが、ドイツ語が話せ、ドイツに友人が多く、ドイツの事情に明るい白鳥市長だから、こんな大胆なことができたんだ。
由香
 どういうことだか、わかりません。習志野市の公共施設の大量建設と、ドイツと何の関係があるんですか。

 当時でも、これほど大胆に都市建設を推し進めた市は、それほど多くなかった。誰だって、莫大な借金を背負うのはこわいからね。しかし、戦争のあとには猛烈なインフレがくるという知識があればできるんだ。
由香
 インフレというのは物価があがることですよね。ガソリンの値段がもうすぐ2倍になるかもしれませんね。

 インフレというのは、貨幣の価値が下がることをも、いうんだ。インフレがどんどん進んでいるときは、借金をすればするほど、得をする。貨幣価値がすぐに下がるので、楽に返済できるからなんだ。
由香
 白鳥市長は、インフレについての確かな理論を、ご存知だったんでしょうね。

 ドイツでは、第1次大戦の敗戦後、ハイパーインフレが発生した。わかりやすくいえば、今1ドル、116円くらいだが、これが瞬く間に、1ドル、1兆円になったと思えばいい。
由香
 そうすると、輸入ブランド品を買うためには、財布の中には、何百兆円も、お金がなければなりませんね。

 そういうことが、ドイツでは本当にあった。しかし、逆に考えると、1兆円の借金があった人も、1ドル程度で返済できるんだから、借金は帳消しになったようなものなんだよ。こうすることで、国家が背負っていた借金を、消してしまったんだよ。
由香
 日本も、戦争中は国民から莫大な借金をしていたので、これもハイパーインフレで消してしまったということですね。

 ドイツは、日本より先に第2次世界大戦の連合国に降伏し、終戦を迎えている。戦後の復興は、それだけ早く始まっている。そして、再びドイツでインフレが始まっている情報が、白鳥市長にも入っていたことだろう。
由香
 莫大な借金をして、公共施設を次々に建設しても、インフレが進んで、貨幣価値が下落し、容易に返済できるだろうという見通しのもとに、このような大胆な都市政策を進められたというわけですね。

 習志野市は、浦安市についで面積の小さい市なのに、図書館が5つもある。公民館もたくさんある。こうしたことは、すべて白鳥市長が残した実績なんだ。
 それだけじゃない、戦争が終わって、空っぽになった、軍隊の跡地に、日本大学、千葉工業大学、東洋大学付属校、順天堂大学を誘致し、軍都を瞬く間に学園都市にしたのも白鳥市長だ。
 海を埋め立てたところは、どの市も工場を誘致したが、白鳥市長は工場の進出を拒否し、住宅街にした。これも先見の明があったといっていいんじゃないかな。
由香
 市制50年を経た今、白鳥市長の業績をいろいろ検証する時期にきているということも、言えるかもしれませんね。
 そろそろ津田沼小学校を離れて、すぐ先の信号のある交差点へ行きましょうよ。


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2006年08月28日

津田沼小学校と白鳥義三郎

由香
 津田沼小学校の円形校舎は、シンメトリーに配置され、たいへん美しい建築美を見せていますが、これは偶然のことでしょうか、そうデザインされていたものなんでしょうか。

 偶然ではない。習志野市には白鳥義三郎がいたからじゃ。
由香
 何ですかその人は。

 旧津田沼町時代の町長であり、習志野市の初代市長じゃ。町長時代は、全国町村会長を務め、市長になってからも、300以上あった、千葉県の市町村会長も務めていた。たいへん個性の強い人だったそうで、町が発展するには、子供を教育することが最も重要だとして、教育市長とも呼ばれた人じゃった。津田沼小学校のスパルタ教育も、この市長が進めたことなんじゃ。
由香
 その人と建築と、どういう関係があるんですか。

 白鳥義三郎は、ドイツのベルリン工科大学建築科出身で、早稲田大学の建築科教授も勤めていた人じゃ。ドイツと日本の両方で、都市計画論を教えていたという人じゃ。
由香
 ひゃー、すごい人じゃないですか。初代習志野市長が、建築の、それも都市計画の専門家だったなんて。私たち習志野市民はそんな話、聞いたことがありませんよ。市の発行している本にも、初代市長の経歴や業績など全く記載されていませんよ。

 昭和39年建築の、市役所を見てごらん。建物は四角く今では何の変哲もないが、玄関の前には古代ハスの咲く池があり、その周りを丸く、車寄せまでのアプローチが造られている。全国の役所を見たわけではないが、昭和30年代までに造られた役所で、このように美しい配置がなされておるところは、少ないんじゃないかな。
 今は、たくさんの建築家が、腕を競う時代になっているが、当時は小さな町や村の役所をデザインする人は、あまりいなかったんじゃないだろうか。そんな時代に、市長が、最先端を行く欧米の、都市計画を専攻する学者だったんだから、今の習志野市が快適な都市であるとしたら、白鳥義三郎に負う所が多いんじゃないかな。
由香
 津田沼小学校や市庁舎が、美しい配置をしているのは、そういう原因があったんですね。どちらも、こせこせしてなくて、伸びやかで、見た感じのよい建築ですものね。

 わしは、市庁舎と津田沼小学校は、日本建築史に残る建物だと思っているので、できれば、あまり増改築せずに残していってほしいと思っておる。
由香
 それと、もっと私たち市民に、白鳥義三郎氏について、教えてほしいものですね。ほかにも、今の私たちに関係する業績がありますか。

 日本と日独伊三国同盟の関係にあった、ドイツの事情に詳しかったことが、その後の市の発展にたいへん役立っている。その恩恵は、今でもみんなが受けているよ。
由香
 それはどういうことですか。
 
posted by 絢 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月27日

津田沼小学校の円形校舎は文化財2


 円形校舎は昭和29年から10年間くらいの間に、国内で約100棟が建築された。ところが、円形では増築が難しく、その後の児童急増に対応できないため、新築されることがなくなった。現在では老朽化が進み、30棟ほどしか残っていないといわれている。
由香
 千葉県内では、津田沼小学校だけに残っているんでしょうか。

 全校生徒130人という、柏市立第六小学校にも残っているというが、確認したわけじゃあない。首都圏でも6棟か7棟程度しか残っていない。建築史に残る、きわめて希少性のある建物なんだ。
 そのうえ、津田沼小学校の2棟は校庭から見ると、ほぼシンメトリー(左右対称)に配置され、見事な総合的建築美を見せている。他の円形校舎が、校内に1棟しか存在しないこと、他の建物に取り囲まれていたり、増築されていたりしていて、建築美という点では、津田沼小学校に遠く及ばない。こうしたことを総合すると、登録文化財の価値があることは当然、さらに重要文化財級の価値があるといっていいんじゃないかな。
由香
 またまた重文級の建物が登場しましたね。習志野市はすごいところですね。でも現役の校舎として使っているし、移築保存したんでは美観が損なわれる。そのまま使うんでは地震が怖い。どうすればいいんでしょう。

 そのまま補強工事をする方法。津田沼幼稚園を、菊田保育園と合体し、幼保一元施設にし、幼稚園跡地に新校舎を建てる方法。隣の農地を買い取って、そこに新校舎を建てる方法。そのほかいろんなことが考えられるが、将来の重文候補としての価値を損なわないように、市民と市議会で考えてほしいものだね。
由香
 日本一美しいシンメトリーに配置された2棟の円形校舎の保存を、よろしくお願いします。
 
posted by 絢 at 18:46| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月26日

津田沼小学校の円形校舎は文化財1


 津田沼小学校の2棟の円形校舎の、東棟は昭和32年3月に築造されている。西棟は33年9月だから、2007年には東棟、08年には西棟が、登録有形文化財建造物の要件を充足する。
由香
 登録有形文化財建造物(略して登録文化財)と重要文化財建造物(略して重文)とは、どこが違うんですか。

 正確な定義は別にして、重文に指定されると、その建造物の所有者、使用者は一切の変更が禁止される。そのままの状態で使用しなければならない。
由香
 江戸時代の建物を、そのままの状態で使用するなんて、できるんですか。柱が腐ったり、壁が崩れてきたらどうするんですか。エアコンも網戸もつけられないんですか。

 子供が大きくなって来たり、家族構成が変わると、家も改造したくなるよね。だから、重文の指定は拒否する人もいるんだ。6月24日に旧大沢家について、語ったように、大沢さんは重文の指定を拒否したんだったよね。
 重文に指定されると、建物の補修費用の大部分は、国や自治体が出してくれるけれど、元に戻すだけだから、現代生活に合わない家であることは、違いないね。
由香
 エアコンはついているんですか。

 木と土と紙でできた、日本の文化財に住んでいる人で、エアコンをつける人は少ないだろう。エアコンの乾燥した空気は、木や漆喰の壁をいためるんだよ。それに、そういう家はすきまも多く、空気の流通がいいから、エアコンは効かないだろうね。網戸をつけても、効果がないだろう。
由香
 文化財に住んでいる人は、たいへんですね。地震や火事にも、こわいでしょう。

 文化財になることを承諾した人は、日本文化を継承して行くために、エアコンの効いた涼しい部屋の、ソファーに寝そべってテレビを見る、という生活をあきらめ、蚊取り線香をつけて、蚊を追い払いながら、汗をふきふき畳の上で、生活をしているんだ。
由香
 それじゃ、拒否するのも当然ですね。承諾した人は、えらい人ですね。

 別棟を建てて住んでいる人もいるが、最近は、国や自治体の財政も苦しいから、文化財の補修費用も、所有者負担の割合が上がっていて、ますます所有者を苦しめているんだ。
由香
 外国への援助や、戦争に協力するよりも、まず日本文化の維持保存が、先なんじゃないんでしょうか。

 日本の建物で、何らかの文化財になっているのは、2万棟もないと思うが、イギリスでは50万棟もあるといわれている。いかに日本が、自国の伝統的建物を軽んじているかが、わかる数字だろう。
由香
 それに対し、登録文化財はどういう制度ですか。

 登録文化財は、建築後50年以上経っていて、その地域で親しまれ、保存したい建物であればいいんだ。重文と違い、外観の4分の1までの、改造変更が認められている。内部をレストランにしたり、博物館にすることも認められている。明治時代のレンガ造りの建物とか、茅葺きの民家であるとか、土蔵とか、日本の歴史的風景である外観を、保存することに重点をおいた制度なんだ。
由香
 金銭的援助はあるんですか。

 ほとんどない。日本は文化財級の建物を保存することを、ほとんどしてこなかった。これに危機感をもった人達が、とりあえず登録文化財という制度を作り、所有者に、国が認めた文化財という名誉を与え、所有者の自費で保存してもらおうという、虫のいい制度なんだ。バックにお金のある団体がついている建物はいいが、個人では負担になる所有者もいる、制度だね。
由香
 どんなものが登録文化財になっていますか。

 築50年以上であればいいから、今なら昭和31年以前ということになる。平成8年から登録が開始され、すでに全国で約6千件が登録されている。3万棟くらいを目標にしているらしいが、いくらあってもいいんじゃないかな。
 たとえば、大阪城や旧神奈川県本庁舎、明治村に移築されている建物の大部分、等がある。個人所有の昭和初期までの建物も、たくさん登録されている。日本で最初の公団住宅まで、登録文化財になっている。
 昭和33年建築の東京タワーは、2年後に50年になるんで、今から登録文化財にする準備をしていると、先日の新聞に出ていたよ。文化財という箔を付けたいんだろうね。もっと高い電波塔が建つ予定だから、登録文化財ということで、差別化を考えているんだろう。
由香
 津田沼小学校の2棟の円形校舎は、まもなく築50年になりますが、文化財としての評価は、どのようになりますか。

 高く評価していいと思うよ。
posted by 絢 at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月25日

習志野と戦争2


 この方が言われるに、旧津田沼町は軍都として有名だった。優秀な軍人がたくさん集まっていた町だった。ところが、突然戦争が終了すると、軍人さんたちは、やることがなくなってしまった。当時は子沢山の時代で、農家の4男、5男もたくさんいた。田舎へ帰っても、跡取りでないと居場所がない。
 軍人の、このような状況の一方で、当時は日本中どこでもそうだったが、若い男性が戦争に行ってしまうので、婿不足が深刻だった。その結果、ごく自然に、行く場所のない若い軍人さんたちが、津田沼のみならず、この周辺の農家などの娘のお婿さんとして、次々と吸収されていったんだそうだ。
由香
 今でも、習志野市とその周辺には自衛隊があり、第一空艇団は、自衛隊の中でも最も優秀な人の集団だと聞いていますよ。軍隊の時代も、優秀な人がそろっていたんでしょうね。

 ここからはわしの勝手な意見じゃが、優秀な軍人は、運動能力抜群の人たちなんだろう。その人達が、習志野周辺の娘と結婚すれば、その子供も運動能力抜群の子供が、たくさん生まれるんじゃなかろうか。
由香
 つまり、戦争が終わった昭和20年から、地元の娘との結婚が始まり、その子供が高校生になるのが、昭和30年代の後半から40年代と言うことになる、といいたいんですね。その時期に、習志野高校のサッカー部の全国優勝、野球部の2度の甲子園優勝があったわけですからね。

 運動能力抜群の子供が、かっての津田沼小学校のような、運動のスパルタ教育を受ければ、鉄棒の大車輪ができる子が、たくさんいた学校になるんじゃあなかろうか。
由香
 現在でも、第一空艇団をはじめ、運動能力抜群の自衛隊員が、この周辺にはたくさんいますし、自衛隊の官舎もありますから、運動能力抜群の子供が現在も供給されているということでしょうか。

 そういう風に、我輩は勝手に思っておるのであります。
由香
 それでは、津田沼小学校を過ぎて、次の信号のところへ進みますか。

 津田沼小学校については、まだ話すことがあるんだ。
由香
 まだあるんですか。

 校舎だよ。
posted by 絢 at 22:02| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月24日

習志野と戦争1

由香
 8月3日と4日の話を読んでいただければ、ここからは、その続きと言うことになりますね。私が、
 「戦争が終わって20年経った頃から、突然習志野市およびその周辺から、すごいスポーツ選手が輩出されるようになったんですね。」
 と言ったら、その理由は、津田沼小学校のスパルタスポーツ教育と戦争にあると説明されました。ここからは、どうして優秀なスポーツ選手が、たくさん輩出されるようになった理由が、戦争にあるのかを説明してください。

 実は、昨日話した、91歳で亡くなった、わしの友人は弁護士をしていた。何と、91歳で亡くなる前日まで、毎日事務所に通って仕事をしていたという猛烈な方だった。わしは、その方と、2ヶ月に1回くらい、居酒屋で酒を酌み交わしておったんじゃ。
由香
 そのときに、昔の話をたくさん聞いたんですね。答えはそこにあるわけですね。

 関東大震災のときは、12歳だったそうだ。しかも、震源地に近い伊豆の韮山にいたそうだ。たまたま、学校の校庭に出ているときに地震がきたそうで、広い校庭が波打っているのがはっきり見えたと言っておられた。
由香
 91歳まで現役の弁護士だったなんて、すごい体力ですね。健康の秘訣を聞かれたんでしょう。教えてくださいよ。

 この方には二人のお姉さんがいたが、ともに90代まで健在だった。その秘訣をお聞きすると、梅干かもしれないと言っておられたんだ。
由香
 姉弟3人が、90歳代まで長寿を得た原因が、梅干ですか。毎日食べているんですか。

 そうじゃない。子供の頃、毎日いやと言うほど梅干を食べさせられたと言うんだ。
由香
 毎日、子供全員に、いやというほど梅干を食べさせる家は、あまりないでしょう。何か理由があるんでしょうね。

 この方は明治45年生まれだったけれど、お父さんは旧制中学の英語の教師だった。
由香
 それじゃ、夏目漱石と同じじゃないですか。時代も重なるから、知りあいだったんじゃないですか。

 そんな話は聞いていないが、父が国家公務員なので、転勤がある。3人の子供が生まれたときは、和歌山にいたそうだ。有名な紀州梅の産地で、家にも梅の木があって、業者が買い取りに来ていたそうだ。そんな関係で、家には梅干がたくさんあって、毎日、姉弟三人が、いやというほど食べさせられたと言うんだ。ご本人は、それが原因ではないかと言われるんだよ。
由香
 何とも言いようがないですね。毎日の食生活で、注意されていたことは何ですか。

 毎日、刺身を食べるそうだ。事務所の帰りに、スーパーで刺身を買って帰ると言っておられた。それと、ご飯(米)は毎日食べるそうなので、胃が丈夫なんだろうね。子供の頃の梅干が、胃を鍛えたのかもしれないね。
由香
 話がそれてしまいましたが、その方が、この地域と戦争について、何と言っておられたんでしょうか。

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2006年08月23日

夏休みー16(井戸)


 そろそろ夏休みも終わって、本題に入らんといかんが、この前、井戸の話をすると言っといたんで、ここで少し話すよ。
由香
 県営の上水道は、昭和14年前後に、津田沼にも引かれて来たというお話でしたね。そうすると、それまでは井戸掘りやさんがいたということですね。

 津田沼は地下水の豊富なところなんで、昔は、少し井戸を掘ると水が湧いた。津田沼の水はうまいことでも知られていた。豊富な地下水を、たっぷり吸ったスイカでも有名じゃった。
由香
 またまた、おかしなことをいいますね。津田沼の名産はニンジンですよ。5月になると、給食にたくさんニンジンがでてきますよ。地産地消というやつですか。スイカが名産なんて聞いたことがないですよ。

 今の話をしているんじゃないよ。わしの、東京は目白に住んでおった友人で、3年前に91歳で亡くなった人が、戦前は夏になると津田沼産のスイカを良く食べたもんだと言っていたんだよ。久々田風土記という、津田沼の昔のことを書いた本にも、昔はスイカが生産されていたことが書かれている。
由香
 そう言えば、思い出しました。私の友人の40代のお母さんが、子供の頃は夏になると、スイカがごろごろ置いてあったと言っていましたよ。買ってきたんだと思っていましたが、生産されていたから、たくさんあったんですね。ごろごろ置くほど買うわけないですよね。

 このあたりの農業生産高の8割は、甘藷だったと言う話は、だいぶ前にしたが、残りは麦、落花生それに西瓜じゃったんじゃよ。戦前は東京に出荷されていたが、戦後は、工場が地下水をくみ上げ、地盤沈下がおこるようにまでなったので、西瓜は減っていったんじゃろうな。
由香
 井戸はどうなりました。

 井戸掘りやの話を忘れておった。久々田風土記には、屋号が犬桶屋という瓦屋根2階建の井戸掘り屋があったことが書かれている。戦前のこのあたりでは、瓦葺だけでもめずらしかったのに、2階建てだったんだから、たいへん裕福であったことを意味している。しかし、水道が普及したらいなくなってしまった。
由香
 当時は、どのように井戸を掘ったんでしょうか。

 人間一人が入れる程度で掘って行くので、2尺、約60センチの穴を掘って行くんじゃ。3尺、約90センチ掘ると、周りを土とセメントを混ぜたモルタルで丸く固めて行く。また3尺掘ると、丸く固める。
由香
 その継ぎ目がわかりますか。

 昔の、大きな井戸を上から見る機会はないと思うが、上から見ると、90センチごとに丸く継ぎ目が見えているよ。
由香
 上総掘りというんですか。

 有名な上総掘りは、房総半島の南の方の、地下水の乏しい地域で、小さな穴を深くまで掘る、明治時代に開発された技術じゃが、この辺では、単純に人が掘るだけなので、素掘りとか、かぶり掘りと言われていた。現在は機械で掘るので、こうした手掘りの井戸は、少なくとも70年近くは経っている。すでに文化財の領域に至っている井戸なんだよ。
由香
 どのくらい深く掘るんでしょうか。

 水が汲めればそれでいいんじゃが、酸欠になるおそれがあるんで、せいぜい10メートル程度が限度なんだ。現在では、工業用の地下水の汲み上げは禁止されているので、涸れていた井戸の水が回復しているようだね。災害のときに役立つかもしれないね。
由香
 今でも、桶を垂らせば水が汲める井戸のある家は災害時に使えるように準備しておきましょう。

 そろそろ、津田沼小学校の話にもどろうかね。どこまで話していたんだっけ。
posted by 絢 at 18:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月22日

夏休みー15

由香
 まことに申し訳ございませんが、本日も、夏休みとさせていただきます。爺さんは、暑さでグロッキーで、氷枕で休んでおります。
 ホームページをごゆっくり、ご鑑賞くださいと申しておりました。
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2006年08月21日

夏休みー14

由香
 また以下のような質問が届いていますが、爺さん、どうしますか。

 京成電車の正式な社名は『京成電鉄株式会社』ですよね.
 この電鉄は電気鉄道の略ですよね.ということはですよ,京成もその昔は京成電気鉄道株式会社といっていたのではないでしょうか.
また,成田までの線を京成本線というのは何故でありますか.
それと,“わいがや通り”というのは袖ヶ浦団地に向かうとおりのことでありますか。


 京成の社名は、京成に電話して聞いてくれたまえ。わしの知ったことじゃないよ。
 成田の件は、わしでもわかる。沿革から言うと、江戸時代は、自分のいる地域から外へ出ることは、自由にはできなかった。唯一、伊勢神宮、成田山新勝寺、富士講、出羽三山講など、宗教的な旅行は認められていた。その流れが、明治時代になっても続き、千葉県内では、成田参詣が最も人気のある旅行だった。昔のディズニーランドだったんですよ。
 当然、鉄道を敷こうと考える人達も、一番たくさん人が乗るコースである東京ー成田を中心に考える。したがって、名前も、東京の京と、成田の成をとって、京成になった。東京から、成田までの私鉄を造るつもりで造ったんだから、これが本線にきまっとるじゃろうが。津田沼ー千葉間は、地元の要望が強かったから、造ったに過ぎないんじゃよ。
 ついでに言えば、現在のJRは、船橋から千葉へ行き、それから方向を変えて成田へ向う成田線へ入って行くが、これではたいへんな遠回りになっている。そもそも、最初の計画では船橋から直接成田へ行く予定だったといわれている。それがどうして今のようになったかは、自分で考えてみてください。JRが遠回りをしているから、京成が近道を造ったと言ってもいいかもしれません。
 さらに、現在は、貴殿のお近くの北総鉄道を、成田まで延長する計画があると聞いております。これが一番近いからでしょう。JRも京成も遠回りなんです。
 現在は、成田参詣が目的ではなく、成田空港が目的になっておりますが、江戸時代から平成まで、300年にわたって、いかに成田に早く行くかを考えつづけているのですから、愉快ではありませんか。これぞ成田不動のお導き。南無大日如来、南無大日如来。
 なお、わいがや通りの件はおっしゃる通りです。
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2006年08月20日

夏休みー13

由香
 お休み中申し訳ありませんが、夏休みの課題の件で、教えていただきたいことがあるんですが。津田沼のインフラについてです。

 わしも今朝から刺されておるよ。この辺は蚊が多いな。駆除法についてじゃな。
由香
 ボウフラじゃないんです。インフラです。電気、ガス、電話、上下水道のことですよ。

 そんなことはその会社に聞いてくれ。
由香
 東京電力に電話しても、わからないといわれたんですよ。

 東京電力が、津田沼に電気を引いたんじゃないから、そう言われるかもしれんな。
由香
 東京電力じゃないんですか。誰が引いたんですか。

 京成電車だよ。京成は、蒸気機関車ではなく、最初から電車を走らせる計画だった。だから、その前に電気を引かなければいけないから、京成電灯という会社を作った。そこがこの地域に、明るい電灯をもたらしてくれたんだよ。
由香
 いつのことですか。

 京成津田沼駅は大正10年の開業じゃが、その前の大正6年には、電灯がつくようになったといわれている。しかし、市が発行している本には、明治45年と書いてある(新版習志野ーその今と昔104頁)。どっちが正しいのかは、わしゃ知らん。
由香
 ありがとうございました。それから、市の本の年表では、公営水道は昭和24年から工事を開始したと書かれていますが、これでいいんでしょうか。

 それは市の水道事業のことじゃ。津田沼は、京成電車から南が県の水道、北が市の水道に分かれている。市役所や旧家が多い方は県営で、昭和11年頃から、千葉の方から工事が開始され、16年頃には終了している。だから、たぶん昭和14年前後に津田沼が工事されたんだろうな。
由香
 それまでは井戸水を使っていたということですね。

 井戸については、あとで説明してあげよう。電話は、昭和3年3月6日に開通しているよ。下水道は戦後だから、自分で調べてくれ。ちょっと買い物に出かけるんで失礼するよ。
posted by 絢 at 10:29| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月18日

夏休みー12(番外編)

由香
 最後の質問は、以下の通りです。
 
「 月遅れのお盆近くになると農家の玄関席に、白い無地の堤燈が掲げてありますが、この意味をお教えください。 」


 これは、このあたりでは、「 新盆 」の家と呼んでいる。この1年間に家人の誰かが亡くなって、初めてのお盆で、仏様になって、初めて家に帰ってくる家であることを標示しているんだ。
 新盆の家が、どのようなことをするかは、検索窓に、「新盆」と入れると、説明が出ているんで省かせていただきます。
由香
 これにて、質問のお答えを終了させていただきます。

 また暑くなってきたな。もう少し夏休みじゃ。

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2006年08月17日

夏休みー11(番外編)

由香
 昨日は、苗字の質問にお答えしました。今日は、鬼瓦のことですが、長い話になるということで、爺さんに直接答えていただきます。質問は、以下のようでした。

「 旧家の鬼瓦には家紋や苗字を刻印しておりますが、これは何故ですか? ご存知でしたらお教えください。お願いいたします。 」


 質問者は、北総の鬼瓦の写真を収集しておられるようで、たいへん良いことじゃ。ここから進んで、普通の瓦にも興味を持っていただきたいもんじゃね。質問の答えだけなら、そんなに長くなる話じゃないが、この地域で瓦が使われたのは、いつの時代からなのか、その瓦に家紋や苗字が入るようになったのはいつ頃なのかという形で、お答えしようと思っておる。
 由香ちゃん、日本で瓦はいつ頃から使われていると思う。
由香
 奈良時代のお寺を発掘すると、瓦が出てくる話は、よく新聞に出ていると思います。鬼瓦の破片も出てるんじゃないかしら。

 そうだね。瓦は古代から使われているが、庶民が使うようになったのは、いつからだと思う。
由香
 わかりません。

 江戸時代の中頃に、さんがわらが開発されてからなんじゃ。
由香
 さんがわらってどんな瓦ですか。

 昔の寺院の瓦は、丸い瓦と平らな瓦を交互に屋根に置いていたが、丸と平らをくっつけて、S字型の瓦にしたのが桟瓦で、屋根に桟を付けて、そこに引っ掛けると、落っこちないようになっている。隣の瓦に乗っかる、曲がった部分を桟というらしい。
由香
 桟瓦が開発されて、武士や庶民の家にも瓦が使われるようになったんですね。

 江戸時代は、身分制が厳しかったので、武士以外は瓦の使用は禁止されていた。例外は、火事の延焼防止のため江戸市中の町屋や街道沿いの町屋では、瓦の使用が認められていた。
由香
 関西にも、瓦屋根の家があるって言ってませんでした。

 幕府の力も、関西には及ばなかったようで、江戸時代の瓦屋根の民家がたくさん残っている。大名貸しといって、大名にも金を貸している町人がたくさんいたので、堂々と幕府の禁制を破っている民家がたくさんあったんじゃ。
由香
 そうすると、関東地方では、江戸市中や街道沿いの一部を除き、江戸時代の瓦屋根の民家は、ないということですか。

 ないはずだ。もしあれば、重要文化財になるだろうね。
由香
 江戸時代はどこで瓦を作っていたんでしょう。

 関東地方では埼玉県の深谷市の深谷瓦が有名だ。江戸で使われた瓦は、ほとんど深谷瓦といわれている。瓦は重いので、遠くから運ぶのは困難だが、深谷からなら、船に乗せて、川を下れば江戸へ行くので、便利だったんじゃろう。
 それと、浅草でも今戸焼といって、瓦をはじめ粘土製品を作っていたという記録がある。
由香
 質問に戻りますが、家紋や苗字はどうですか。

 江戸時代の武士の家などでは、瓦に家紋を入れるのは、ごく普通のことだった。寺の瓦でも、いろんな模様が入っていて、鬼瓦に限らず、瓦のデザインのひとつに過ぎないと思っていいんじゃないかな。
由香
 このあたりで、庶民が瓦屋根の家を建てることができたのは、明治以降ということになりますね。

 そうなるが、瓦は手作業でしか作れなかったし、重くて運搬が困難なので、たいへん高価なものだった。だから明治になってもこのあたりで、すぐに瓦屋根の家が建ったわけじゃない。近くで瓦やさんができてからじゃよ。
由香
 いつ頃から、このあたりで瓦が生産されるようになったんでしょうか。

 それがよくわからないんだ。一説によると、瓦で有名な愛知県の三州瓦の職人が、明治になって、居住移転が自由になったんで、良い粘土を求めて全国に散らばっていった。そして、関東地方で良い粘土を見つけた職人が、そこに定住し、瓦の生産を始めたんだろうと言われている。
由香
 このあたりでは、どこで定住したんでしょう。

 わからない。諸説がある。
由香
 習志野市内で最も古い瓦は明治何年のものなんでしょうか。

 幕末の江戸では、瓦に家紋や模様を入れるのが普通になっていた。しかし、庶民は、身分制度を思い出させるのか、模様を入れた瓦は、使おうとしなかったんだ。明治中期になって、全く模様を入れない無地瓦が製作され、これが庶民に受け入れられて、広がった。
 習志野市内では、国登録有形文化財の廣瀬家の、明治24年(1891)の甘藷蔵の瓦が、無地瓦だ。平成16年にこの蔵の瓦が新しいものと取替えられたが、たぶん市内では現存する最古の瓦と思われるので、すべて保存されているよ。
由香
 無地瓦は、今の瓦と違いがあるんですか。

 どこの家でもいいが、軒先の瓦を見てごらん。丸い部分がたくさんあるだろう。その丸いところを良く見ると、どこも凸レンズのようにふくらんでいる。ところが、無地瓦は、スパッと切り落としたように、平らなんだ。だから、古い建物で、丸い部分がスパッと切り落としたようになった建物を見つけたら、明治末までの建物と考えていいよ。たぶん、大正時代くらいからは、丸い部分はどこも、凸レンズ状になっている。無地瓦は、船橋の古い家に、今でも見られるところがあるよ。
由香
 ほかにも違いはあるんですか。

 専門的になるが、切り落としの面取りの厚さ、かぶりの深さ、カーブのゆるやかさ、にも違いがあるが、外見からわかるのは、ふくらんでいるかどうかだけだね。
 廣瀬家の甘藷蔵は、棟札から明治24年の建築であることがはっきりしている。そして、明治中期から無地瓦が庶民に使われるようになったと、文献に書かれているので、この瓦が、この地方で庶民の建物で使われた、最も初期の瓦ではないだろうかね。他に、新発見があることを期待しているが。
由香
 その建物には、習志野市域最古の鬼瓦がついていなかったんですか。

 ついていた。現在は取り外されて、保存されている。何か模様が入っていたような痕跡があるが、はがれてしまっていて、不明なんだ。この鬼瓦は3つのパーツに分かれている珍しいもので、3つを結び付けている、銅の針金も100年以上たった今も、ほとんど変化なく3つを結合しているから不思議だね。昔の針金は品質がいいんだね。
由香
 無地瓦から、苗字や家紋が入った瓦になったのは、いつ頃でしょうか。

 江戸時代の記憶が薄れていった、明治の末期頃だろうね。質問者の疑問の返答としては、幕末に一般化していた、瓦に家紋や模様を入れる習慣が、無地瓦で途切れ、明治の末期から大正時代になって、庶民の家の瓦や鬼瓦にも復活してきたんです、というところでしょうか。
由香
 長いお答えで、お疲れ様でした。何か付け加えることはありませんか。

 昔の鬼瓦は、本当にこわい顔をしていた。しかし、人々が密集するようになると、窓をあけると、こわい鬼瓦が目に入ったんでは、気分が悪いし、子供が怖がる。そんなところから家紋や苗字、屋号などになっていった、という説も有力です。
 それから、瓦は本来、中国から伝来した仏教寺院に使われていたもので、日本独自の神社には、使われる伝統はなかったということも、付け加えておこうかな。もし、神社にこわい顔した鬼瓦がついていたら、仏教建築に神社神道が入っていることになるね。
由香
 今日も、ご質問のお答えで、こんなに長くなってしまいました。3番目の質問の答えは、次回にさせていただきます。

posted by 絢 at 12:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月16日

夏休みー10(番外編)

由香
 今日も爺さんは夏休みです。8月15日に以下の質問が届いていました。爺さんに聞いておいたことを、私からご返答致します。

 由香 賛、ちょっとお尋ねいたします。
 津田沼や習志野などこの北総地方には、三代川、皆川、掛橋の苗字が多いのですが何故ですか。
 また、旧家の鬼瓦には家紋や苗字を刻印しておりますが、これは何故ですか? ご存知でしたらお教えください。お願いいたします。
 それともうひとつ、月遅れのお盆近くになると農家の玄関席に、白い無地の堤燈が掲げてありますが、この意味をお教えください。

由香
 まず、苗字につきましては、皆川、掛橋という苗字は習志野市内では、ほとんど聞かないということでした。
 三代川という苗字は、「織戸村とは」、のときにすでにお話したように、谷津地域に多い名前です。同じ発音で、澪川と書くこともあるようです。澪とは船が通れる深みを意味しますが、三代川さんは、昔の海岸沿いにたくさん住んでおられるので、名前の由来は「澪」、に関係しているのかもしれません、とのことでした。
 三代川は、お隣の船橋市へ入ると、御代川と書く家が多くなるそうです。御代川と書く人に聞いた話では、「御」、を使うのはおこがましいということで、「三」、に変わっていったのではないか、と言っておられたのを、聞いたことがあると、爺さんは言っていました。
 織戸という名前について説明した、7月27日から見ていただくと、名前が地域によって集中している理由が、書いてありますよ。
 どういう名前がどの地域に集中しているかは、お寺の墓地へ行くとわかるそうです。たとえば、津田沼の東漸寺へいくと、三橋、吉野、植草が、鷺沼の慈眼寺へいくと、村山、廣瀬という墓石がずらっと並んでいるので、この名前がこの地域に多いということが、すぐわかるそうですよ。実籾へ行けば、鴇田、桜井が、大久保へ行けば、市角が多いそうです。
 なお、市が発行している本によると、市角は大阪府羽曳野から、三橋は徳川家康の地元三河から、織戸は紀伊和歌山から、それぞれ江戸初期に移住してきたことが説明されていますよ。
 なお、江戸時代は一般庶民は名前だけで、苗字はなかったのではないか、という人がいます。これは、幕府が身分差別を徹底するために、武士以外には苗字を、公式書類に使わせなかっただけで、神社に奉納するときや、過去帳など身分とは関係ない宗教的なことには、苗字を書いていましたので、お間違えなくと、爺さんが言っていました。

 苗字のお答えだけで、こんなに長くなってしまいました。鬼瓦については、もっと長くなるとのことなので、次回にご説明申し上げます、と爺さんが言っていましたので、よろしくお願いします。
posted by 絢 at 08:38| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月15日

夏休みー9(被害者は誰)

由香
 今日も爺さんは夏休みで居りません。私から、お話させていただきます。
 
 今日は8月15日です。今日の夕方には、ご先祖様達が、お墓へと帰って行かれます。しかし、市内には一人だけ、行くあてのない仏様がいます。平成12年にあった、殺人事件の被害者の女性です。この事件は、犯人も逮捕され、判決も出て、すでに服役していますが、30歳前後とみられる被害者の身元が、いまだに判明しておりません。
 
 検索窓で、「 習志野警察署 」と入れてください。ホームページが出てきます。その中の、「情報をお寄せください」、を開いてください。この女性の似顔絵が、掲載されています。
 
 「テレビのチカラ」、という番組があります。テレビで、尋ね人探しや、犯人探しをしている番組です。インターネットにはどれだけのチカラがあるんでしょうか。このブログをご覧になった方が、方々で、平成12年の初め頃から、行方不明になった女性についての情報を流し、被害者の身元を、判明させるだけのチカラがあるんでしょうか。インターネットにそんな力はないんでしょうか。それはともかく、いまだに帰る場所もなく、さまよう仏様のために、どうかご協力ください。
 
 行きずりの犯行のため、犯人も被害者のことを知らないようです。犯人が被害者と会話をしたかどうかも、私にはわかりません。もし、話をしていたら、日本人か外国人かの区別くらいわかると思います。警察のホームページの情報ではよくわかりません。
 
 警察の黄色いテープが、現場に張り巡らされていた当時のことは、今もよく覚えています。犯行現場の空家が取り壊され、新しい建物が建ってしまっている今も、その前を通るたびに、被害者の身元が判明しただろうかと、思い出してしまいます。この話を、お聞きになった方々も、ときどきは、習志野警察のホームページで、私と同じように、確認してあげてください。南無阿弥陀仏。

 本日のお話は、以上です。
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2006年08月14日

夏休みー8(お盆)

由香
 今日は爺さんが夏休みなので、私がお話します。昨日は8月13日でした。この辺はまだ古い家が多いので、昔のしきたりどおり、お盆のお迎えをしました。夕方、ちょうちんを持って、家族でお寺へ行き、ご先祖様が3日間だけおうちへ帰る道案内をしました。町中の、古いおうちの人達が、ちょうちんを持って歩いている姿は、おもしろいですよ。あなたの町でも、このような習慣は残っていますか。谷津は西光寺、久々田(現津田沼)は東漸寺、鷺沼は慈現寺へお迎えに行くのが本来ですが、最近は、途中までにしている家も多いようです。
 家の中の仏壇のまわりはきれいにかざってあります。今日は、親類の人達も線香をあげに来てくれました。明日も来てくれる人がいると思います。昔は、近隣の親類がもっとたくさん来ていたようですが、最近は、親類付合いも薄くなる傾向のようです。
 明日、15日の夕方には、お寺まで、ちょうちんを持って家族で、ご先祖様をお見送りします。夕方、ちょうちんを持って歩いている家族連れがたくさんいるはずですよ。
 以上で、本日は終了です。
posted by 絢 at 17:47| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月13日

夏休みー7(くまぜみ)


 今日も暑くなってきたな。朝、近くの公園を通ったらクマゼミが鳴いていたよ。数年前からいたが、定着してきたようだね。
由香
 クマゼミがどうかしたんですか。

 クマゼミは気温の高い関西にはたくさんいるが、箱根を越えることができないといわれていた。ところが、地球温暖化の影響か、かなり以前から伊豆半島ではクマゼミが見られるようになり、東京や千葉県でも、数年前から鳴声が聞かれるようになった。
由香
 クマゼミが関東に進出したからって、世の中何か変わることがあるんですか。どうでもいいじゃないですか。

 それがあるんだよ。クマゼミは、関東地方にいるミンミンゼミやアブラゼミよりはるかに体が大きく、繁殖力も強いから、近い将来、関東地方のセミの鳴声もクマゼミが中心になってしまう可能性が高いんだ。
由香
 セミの声が入れ替わったからって、なんだというんですか。私の夏休みには影響ないでしょう。

 あると思うよ。クマゼミは大繁殖して、1本の木に100匹くらい止っていることは珍しくない。体が大きいので、鳴声は関東地方にいるセミの数倍大きい上に100匹が合唱すると、たいへんなうるささになる。そのうえ、夜明けと同時に鳴き始めるので、夏になると、朝から晩までたいへんにうるさい夏休みになってしまうんだよ。
由香
 関西の夏休みは、セミでうるさいんですか。

 関西で生まれ育った人は、夏休みといえば、朝から晩まで1日中、シャンシャンシャンシャンというクマゼミの鳴声のなかですごすものだと思っている。関西の人が、大人になってから関東に住むと、なんて静かな夏なんだろうと思うのが普通だよ。あまり静か過ぎて、夏という感じがしないんだよ。
由香
 大都市でもそうですか。

 クマゼミは大阪のような大都会の、街路樹という街路樹に、何十匹ととまっていて、シャンシャンシャンシャンと大合唱しているから、どこへ行ってもクマゼミの声から逃げることはできないよ。
由香
 地球温暖化を何とかしてください。うるさい夏休みなんかいやです。静かがいい。クマゼミ反対運動を起こしましょう。

 もう手遅れかもしれないね。
posted by 絢 at 10:53| Comment(0) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月12日

夏休みー6(続・まぼろしの重文)


 習志野市実籾5丁目16番に小倉公園がある。かってここに、日本を代表する朝鮮半島の美術品、約千点が収納されていた保存庫があった記念碑が建っている。
由香
 そんな話、聞いたことがありません。朝鮮半島って韓国や北朝鮮のことですか。

 日本がかって朝鮮半島を統治していた時代に、小倉武之助(1870ー1964)という人が現地に電気会社を創立し、事業家として成功した。その財力で、朝鮮半島の考古学資料や美術工芸品を収集したんだ。韓国では国宝級といわれる逸品も含まれていて、それらが、小倉コレクション保存会という財団法人化されて、市内にあったんじゃよ。
由香
 小倉という名前も、市内には多い名前の一つですね。その小倉コレクションに重文級のものがたくさん含まれていたんですね。

 重文と同じ評価の、重要美術品という評価が与えられている。
由香
 それで、いまその小倉コレクションはどこにあるんですか。

 東京国立博物館に寄贈されたんで、上野にあるよ。ここの東洋館で小倉コレクションといえば知らない人はいないよ。朝鮮半島のコレクションとしては最高峰だよ。
由香
 私は知りませんでした。市内の人でその話を知っている人は、ほとんどいないんじゃないかしら。

 日本が統治していた時代の収集品だけに、いろいろな意見があるんじゃよ。普通なら国外に持ち出せないようなものなんだから。まあ、そういう歴史があったということは知っていてもいいんじゃないかな。千葉県が発行した昔の文化財の本には、ほんの少しだけ触れられているよ。
由香
 上野の国立博物館、東洋館へ行けば、現物を見られるんですから、まぼろしではないけれど、市内の人がほとんど知らない朝鮮半島の重要美術品が、そして韓国では国宝級のものが、実籾5丁目にあったなんて、驚き、桃の木、山椒の木ですね。

 なんじゃそれは。
 まだまだ夏休みじゃよ。話しかけないでくれ。休ませてくれよ。

posted by 絢 at 10:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月11日

夏休みー5(まぼろしの重文)

由香 
 お休み中に申し訳ありませんが、習志野市にある文化財のうちで、旧大沢家(藤崎森林公園に移築)と旧鴇田家(実籾本郷公園に移築)が重文級の価値がある古民家であることは教えていただきましたが、結局、習志野市には現在、国指定の重要文化財は、全くないということでいいんですよね。国登録有形文化財だけですよね。

 くやしいが、現状はそうだ。かってはたくさんあったんだが。
由香
 それはどういうことですか。習志野市が発行しているどんな本にも、かって市内に国指定の重要文化財が、たくさんあったなんて、どこにも書いてないですよ。うそを言わないでくださいよ。

 この暑いのに、とうとう嘘つきにされてしまったなー。ここは習志野市が発行している本には書いてないことを、話していると言っているじゃないか。
由香
 だって、国指定の重要文化財が、かって市内にたくさんあって、今は全くないなんて、ありえないでしょう。重文を、たくさんぶっ壊す人がいますか。金閣寺のように燃えてしまったんですか。

 それがあったんだから、しょうがないじゃないか。ぶっ壊したわけでも、燃えてしまったわけでも、ないけれど、今はないんだ。
由香
 どういうことですか。市が発行しているすべての本には、まったく触れていない、かって存在した多くの重要文化財とは何なんですか。どこへ行ってしまったんですか。何を言おうとしているのか、さっぱりわかりません。オー・マイゴッド。

 なんじゃそれは。
posted by 絢 at 07:59| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月10日

夏休みー4(番外編)

由香
 ホームページって何を書いているんですか。得意の歴史物ですか。

 演題だけ並べさせてもらおうか。
1 超初心者のための借金問題講演会
2 初心者のための借金整理講演会
3 借金整理中級講演会
4 ユーザー車検失敗談
5 気分転換のための北海道旅行の写真
6 助産婦さんでの出産体験記
7 自動車をただで手に入れる方法
8 ゴルフ歴2年でホールインワンのお話

由香
 なんですかこれは!! 歴史のれの字もないじゃないですか。

 人生いろんなことをやってみないと、つまらないじゃないか。
由香
 みなさん、夏休みです。お時間のある方は、読んでみてください。

 また暑くなってきたな。少し休むよ。

posted by 絢 at 14:56| Comment(0) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月09日

夏休みー3(番外編)


 急カーブをえがいた台風7号も過ぎ去ってよかったのう。少し涼しくなったよ。
由香
 台風で思い出しましたが、平成18年8月1日号の習志野市の広報の、「新習志野散策 bX1」に大正6年の大津波について書いてありますが、千葉県の死者・行方不明205人、全半壊家屋が7、518軒と出ていますが、この数字は間違いありませんか。

 当時は統計の取り方も、今とは違って不正確だったかもしれんな。わしが出したのは、大正6年10月17日の読売新聞朝刊2面からじゃが、そこでは千葉県の死者・行方不明は721人、全半壊流失家屋は20、861棟と書かれている。広報とは3倍くらい違うな。それとこの数字は住家についての数字で、倉庫や蔵、納屋は含んでいないということが書いてある新聞もあったから、実数はもっと多いようだね。
由香
 どっちが正しいんでしょう。

 新習志野散策を書かれた方は、台風が過ぎた少し後の数字を見られたんじゃないかな。わしは、もっと後にならないと正確な数字は出ないだろうと思って、10月17日の新聞の数字を採用したんだ。その意味で、出典を書くことは必要だろうね。
由香
 被害の数字は、災害の大きさを直接数字であらわしてくれるだけに、正確であってほしいですね。3倍も数字が違うんでは困りますね。ぜひ、広報は出典を記載してほしいですね。ところで、大正6年の津波の被害で、付け足すことはありませんか。

 当時の新聞から少し拾ってみようか。「錦糸町駅 プラットフォームの屋根暴風のため倒壊して、そばの汽車会社の煙突を倒す」、「亀戸駅 午前5時頃プラットフォームの上まで浸水およそ3尺、構内はすべて浸水」、「中山駅 海嘯(津波)のため構内一時約二尺ほど浸水しまもなく減水するも付近の田畑はために一面海と化す」、「千葉全市街は水中に没し寒川一面はほとんど全滅の状態なり」、「稲毛より市原郡八幡町間の国道は海嘯にさらわれ全滅の部落もあり」、「船橋浦安間延長五里の住民約180人溺死し稲の間より累々として死骸発見せらるる惨状目を当てられず」(東京日日新聞大正6年10月2日)、「千葉県浦安町沖なる灯台島の住人約三百余名は家屋ぐるみ、ことごとく激浪にさらわれて一人の生存者なく、全島海中に没し去りて片影だに止めず」(東京日日新聞大正6年10月5日)。
由香
 ものすごいですね。東京日日新聞は今の毎日新聞のことですね。
 被害を防ぐ方法について、当時はどのようなことが言われましたか。

 防波堤を造ることが最も大事であると新聞には書いてある。被害の大きさからくらべれば、防波堤を造る費用の方がずっと少ないということが書かれている。
 それから、日本の家は軒先が風に弱い。軒先がやられて、縁側の屋根が飛び、雨戸も飛んでいったということが書かれている。
由香
 史料があれば、教えていただいて本日は終わろうと思いますが。

 「大正六年暴風海嘯惨害誌」という分厚い報告書がある。船橋西図書館に行けば見られるよ。それじゃまた夏休みじゃ。ホームページでも見ていてくれよ。
posted by 絢 at 15:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月07日

夏休みー2(番外編)


 実はな。8月4日に以下のコメントが届いておった。世良田周辺の案内をしてくれた人がおる。ありがたいことなので、夏休みの番外編として紹介することにしたよ。

はじめまして
下記、ご参考に供させていただきます。
(出典:上毛新聞社出版局1978年10月30日発行1,300円也。
TEL0272-51-4341

上州のお宮とお寺。編著者 丸山知良 近藤義雄 )
1)満徳寺 墓(尾島町徳川)52〜53頁。
美智子妃の祖先正田隼人が守護してきた。
2)長楽寺 位牌(尾島町世良田)50〜51頁。
家光が大改修したとき、最初に造営された東照宮は、天海僧正の長楽寺へ移した。天海僧正は東照宮の遷宮の前年に没したが、
3)善昌寺 (新里村新川)102〜103頁。
船田入道善昌が新田義貞の遺骨を持ち帰りここに葬った。
世良田長楽寺の塔頭である大通庵の末寺である。
天海僧正の書簡あり。

由香
 1)の尾島町徳川と言う地名は、まさに徳川発祥の地の名前ですね。皇后さまにも関係があるとは意外でしたね。

 2)の長楽寺へ東照宮が遷されたという件は、江戸時代は、神社はお寺が管理していたので、こういう記述になる。明治以降は、神社とお寺は分離されているんじゃよ。
 天海僧正の名前も出ている。この人が、家康に徳川の名を名乗るように、知恵をつけた人物だといわれているんじゃ。徳川家康が天下を取ったおかげで、地元が260年間も栄えたんじゃから、地元にとってはたいへんな功労者じゃろうな。
由香
 コメントをお送りいただき、たいへんありがとうございました。

 それじゃまた夏休みじゃ。ホームページでも見ていてくれよ。涼しくなる写真もあるよ。ああ暑い。
posted by 絢 at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月06日

夏休み


 毎日暑いのう。すこし休むから、ホームページでも見ていてくれよ。夏休みじゃ。
由香
 ホームページはどこにあるんですか。

 プロフィールのところから入ってくれ。
posted by 絢 at 12:38| Comment(0) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月04日

津田沼小学校のスパルタ教育


 最近ではスパルタ教育なんて言葉はほとんど聞かなくなったが、津田沼小学校のかってのスパルタ体操教育はすごかったらしいよ。まず、登校すると生徒は全員体操服に着替える。男子は白い短パンに青いシャツ姿になる。女子は白いシャツに青いブルマーだ。学校にいる間は、すべてこの運動服姿のままなんだ。今年の1月、2月はたいへんな寒さだったが、1年中生徒は、この姿でいるんだ。冬は長袖にする子もいるが、1年中半そで、短パンの子もたくさんいるよ。窓ぎわに席がある子は、風がスースー入ってくるんで、ほとんど屋外にいるのと変わらないと言っていたよ。
由香
 友人のお母さんの話では、幼稚園のころ、よく風邪をひいていた子供が、津田沼小学校に入ると、1年中半そで短パンなのに、全く風邪をひかなくなるんですって。

 すべての子供には、マット、とび箱、鉄棒の課題が与えられる。親の見学も許されている、器械体操審査会というのがあって、子供は、マット、とび箱、鉄棒の課題をこなせないと、何度でもチャレンジさせられる。みんなが見ている前で、いつまでたっても課題をクリアできないと、大はじをかくことになる。
由香
 業間体操といって、授業と授業の間にも体操をやるそうですね。

 マット、とび箱、鉄棒の課題をこなすために、授業と授業の間にも練習するんだ。みんなの前で恥をかきたくないから、女の子でも、手のひらがガビガビになるくらい、毎日鉄棒の練習をする。
由香
 友人のお母さんは、昭和40年代に津田沼小学校の生徒だったんですが、小学校3年生くらいになると、鉄棒で大車輪をやれる子が出てくると言ってました。4年、5年になると、4クラスあった各クラスから、3人くらい大車輪ができる子がでたそうです。授業のあいまに体操をするというよりも、体操のあいまに授業があるという感じで、毎日毎日、体操で苦しい思いをした、思い出ばかりが残っていると言っておられました。

 津田沼小学校では勉強と、体育の両方ができないと女の子にもてないという伝統がある。勉強だけではだめなんだ。
由香
 とにかくブリッジ、うさぎ跳び、まるで軍隊のような行進、競走、などなど基礎体力をつける運動を徹底的にやらされた、苦しい思い出ばかりが残っていると言っておられました。当時は、運動場では、はだしで走ったので、石があると足の裏が痛いので、みんなで校庭の石取りをしていたのを覚えているそうです。よっぽど、痛かったんでしょうね。

 残念ながら、ゆとり教育時代になった現在では、大車輪ができる子はほとんどいなくなったらしい。昭和30年代、40年代のスパルタ運動教育が、ひいては習志野高校の、サッカーの優勝、甲子園の2度優勝をもたらした遠因だといえるんではなかろうか。
由香
 今でも、津田沼小学校に子供を入れたがる親は多いときいていますよ。さて、次に、軍隊との関係は、どういうことなんでしょうか。




posted by 絢 at 22:40| Comment(76) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月03日

津田沼小学校は突然変異?


 習志野商工会議所の前をすぎて少し行くと、津田沼小学校が右手に見えてくる。
由香
 習志野市内では一番歴史の古い小学校ですが、さすがに相手が小学校では、何も話すことがないでしょうよ。

 津田沼小学校の話をする前に、同じ市立の習志野高校の輝かしい戦績を紹介しよう。
由香
 どうして突然、小学校から高校へ飛ぶんですか。

 市立習志野高校は、昭和41年にサッカー部が全国優勝した。42年には野球部が甲子園で優勝した。野球部は50年にも優勝している。2度の甲子園優勝で、習志野高校の名は全国にとどろいた。
由香
 今でも、習志野高校が甲子園に出ると、古豪習志野と紹介されますから、すごいもんですね。今年も、つい先日県大会の決勝で、1点差で甲子園を逃しました。残念無念。

 20年ほど前に、ナナハンで九州を旅行したことがある。習志野ナンバーのオートバイをみた田舎町のおばさんから、「あの習志野か」といわれたことがある。それだけでお互いに意味が通じた。それぐらい日本中の人に知られた名前になったんだよ。
由香
 習志野市は、千葉県で浦安市についで2番目に小さい面積で、人口も昭和40年頃は7万人程度でした。こんな小さな町が突然、全国津々浦々の人々に知られる名前になったんですね。

 阪神タイガースの掛布、中日の谷沢、現役ではロッテの福浦、ついこのあいだのワールドカップ、ドイツ大会で1点を取った玉田圭司も、習志野高校OBだよ。そのほか現役やOBのプロ野球の選手はたくさんいるし、背泳のオリンピック金メダリスト、鈴木大地も市内の生まれだ。
由香
 戦争が終わって20年経った頃から、突然習志野市およびその周辺から、すごいスポーツ選手が輩出されるようになったんですね。

 最近では、お隣の市船、つまり市立舟橋高校が野球、サッカー、駅伝など、あらゆるスポーツで名をあげているね。
由香
 第2次大戦前にもこのあたりは、ものすごいスポーツ選手を輩出していた地域だったんですか。

 そのころは全く名のある選手はいなかった。
由香
 どうして突然変異のように、人間が変わってしまったんですか。

 よく聞いてくれた。その理由の一つが津田沼小学校であり、二番目の理由が戦争なんだよ。
由香
 戦争と小学校が突然変異の理由だなんて、全く理解できません。一体どういうことなんですか。
 
posted by 絢 at 21:43| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月02日

豪族の館跡と庶民の名前


 世良田駅には1度だけ行ったことがある。世良田は江戸時代は、日光と同じ位にぎわったというが、江戸時代が終わったら、さびれてしまい、今では地方都市のただの住宅街という程度だよ。唯一、そこにある東照宮は重文に指定されている。日本にある約600の東照宮の中で一番古い建物なんだ。
由香
 日光みたいに絢爛豪華なものですか。

 日光を絢爛豪華な建物に建てかえるときに、それまで建っていた質素な建物を移築したんだよ。とにかく徳川といえば日光、日光といえば絢爛豪華なイメージなのに、ここは徳川氏発祥の地という割には、なにもないんで、あまりの落差に驚くから、1度は行ってみた方がいいだろうね。
由香
 話が、津田沼からどんどんそれていきますが、東武伊勢崎線の世良田駅ですね。夏休みにでも行ってみます。ついでに近くに見所はありますか。

 世良田へ行くんなら、足利市駅へも降りたらどうだろうか。ばんな寺があるよ。
由香
 足利学校というのは有名ですが、お寺を見ろというんですか。

 敷地を見てほしいんだ。ばんな寺は平安末期から鎌倉時代の豪族、つまり足利氏の自宅をお寺にしたものだから、敷地の造りを見ると、いろいろおもしろいよ。
由香
 どんな形の敷地なんですか。

 200m四方の、ほぼ正方形で、全周囲に深さ3mくらいの堀を掘ってある。掘った土を内側に積み上げてあるので、200m四方の砦ができあがっている。4辺の中央にそれぞれ門を造り、そこからだけ堀を渡る橋を設けてある。
由香
 要するに、盗賊が入ってこないように、広大な敷地の四ヶ所だけに出入り口の門を置き、守衛さんを配置して門の警備に当たらせたんでしょう。

 そのとおり。この敷地を見ていて、あることを思いついた。
由香
 またまた、時間のかかる話じゃないでしょうね。

 平安時代から江戸時代まで、庶民の名前は、○右衛門、△左衛門、○兵衛というのがほとんどのパターンだった。この字を解釈すると、右の門の守衛さん、左の門の守衛さんになるよ。盗賊を追いかけるときには、守衛さんが集団で追いかけた。守衛の集団を兵といったから、○兵衛は、守衛集団の一員ということになる。
由香
 そういえば、庶民の名前には、頼朝、家康、などの今ではごく普通の漢字2字の名前は聞きませんでしたね。明治になって、名前をつけるのも自由になり、衛門、兵衛のパターンから抜け出すことができたということでしょうか。

 甲府にある武田神社は、武田信玄の館あとだと言われている。ここもばんな寺と似た敷地になっている。この二つの平安時代から戦国時代の豪族の敷地を見て、庶民の名前の由来に思い至ったんじゃよ。
由香
 もういいでしょうよ。津田沼駅からまだ700mくらいのマロニエ橋を渡ったところで、ずっと止まったままですよ。そろそろ、習志野商工会議所の前を通りすぎて、津田沼小学校の方へ行きましょう。
posted by 絢 at 21:59| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月01日

徳川家発祥の地は世良田?


 武士の間では、将軍につく家柄は、清和源氏の家系に限るというのが常識だったんだ。たぶん、武士の間では、朝廷は鎌倉幕府を開くにあたり、源頼朝を将軍にしたから、当時は世襲制の時代だから、源の血統でなければ将軍にはなれないと思われていたんではなかろうか。
由香
 松平家康は清和源氏の血統であることを示すために、徳川に変えたというわけですね。

 そのとおり。さっき言った、群馬県太田市の郊外にある、世良田(せらだ)も徳川も、八幡太郎義家の7代も8代も後の人達が住んでいたところなんだ。このへんの名前なら使ってもいいんじゃないかと思ったんじゃないの。
由香
 世良田と徳川が清和源氏の血統の人が住んでいることはわかりましたが、愛知県三河の松平との血のつながりを証明しなければ、源氏の血統とは言えないんじゃないですか。

 その通りだよ。だから家康は、誰も信じられない話を作り出した。中世の戦乱の中で、いくさで敗走した世良田の1住民が、諸国を放浪し、数代にわたり、約200年かけて三河に到着し、家康の数代前の松平の娘の婿になった。この1住民は徳川にも住んでいたことがあったので、これより我は徳川家康と名乗る、と言い出したんだ。
由香
 それが通るんなら、なんでもありじゃないですか。200年の放浪を、同一人であることを証明できますか。

 朝廷もこれを認めて改名を許したんだから、いいんじゃないの。ともかく家康は、江戸に幕府を開く40年近くも前に徳川に改名しているので、準備のいい人であることは間違いないね。源氏名に改名しておかなかった豊臣秀吉は関白太政大臣どまりで、将軍にはなれなかった。
由香
 そうすると徳川家発祥の地なんだから、今でも群馬県太田市の郊外の世良田、徳川というところは、日光東照宮みたいなところなんでしょうね。

 ぜんぜんそんなところではないよ。東武伊勢崎線の世良田駅は無人駅で、畑の中にぽつんとある、さびしい駅だよ。
由香
 行ったことがあるんですか。

posted by 絢 at 21:32| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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