2006年09月29日

津田沼の東漸寺7(旧鴇田家)


 何度も言っているように、習志野市には郷土資料館がない。だから、郷土の古い建築物の調査が、ほとんど行われていないんだ。鴇田家(ときたけ)は、偶然発見された資料によって、市の文化財に指定されたが、その調査報告書すら、いまだに作成されていないんだ。
由香
 どういうことだかわかりません。

 市の指定文化財になり、そして数億円の費用をかけて、鴇田家は実籾本郷公園に移築保存されたんだから、建物の調査報告書が作成されているのが、普通だろう。鴇田家が、千葉県で2番目に古い民家であることが発見されて、すでに20年近くたって、いまだに調査報告書が作成されていないんだ。図書館に行っても、置いてないよ。
由香
 旧大沢家については、どうですか。

 旧大沢家の調査報告書は、大久保図書館の閉架図書の中にだけあるよ。本来、全図書館に置くべきだと思うけれど。
由香
 そのほか未調査のものは、どんなものがありますか。

 以前にも話したが、丹生神社、八剣神社、根神社は江戸時代後期の建築だといわれている。そうであれば、国の登録文化財にはすぐになるし、市の文化財に指定して、保存を考えるべき建物だろうと思うよ。しかし、全く手付かずだよ。
由香
 たとえば、市民が、古い民俗道具などを市に寄贈したら、どうなりますか。

 郷土資料館のあるところなら、調査した上で、順番に展示して、地元の小学生などの教材になるのが普通だ。ところが、習志野市では、展示施設がないので、倉庫にしまい込んだままになっている。倉庫の中では、乾燥してしまって、たとえば、桶は、ばらばらに分解してしまう。地元の文化財の破壊行為だよ。
由香
 それじゃ、寄贈できませんね。

 郷土資料館のあるところは、住民に古いものを寄贈してくださいと呼びかけているが、習志野市では、倉庫がいっぱいで処理できないので、まったく寄贈を呼びかけていない。
由香
 情けない話ですね。これが文教住宅都市ですかね。温故知新、古いものを大事にする精神があって、初めて新しいものが育つんじゃないんでしょうか。
 そのほかの未調査はどこですか。

 鷺沼古墳、藤崎堀込貝塚、東漸寺、廣瀬家の主屋の屋根裏があるね。





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2006年09月28日

津田沼の東漸寺6(長谷寺)


 真言宗豊山派の総本山、奈良の長谷寺の本堂は、以前から重要文化財にはなっていた。しかし、建築年代が明確にわかる記録が、あったわけではなかったんだ。
由香
 それが、ここ掘れワンワンみたいに、かぐや姫みたいに、木が倒れて記録が出てきたんですか。

 平成15年3月に台風の影響による大風が吹いた。奈良県桜井市にある長谷寺の近くにある木が、強風のために倒れ、本堂の屋根の一部を破壊したんだ。
由香
 これは不幸中の幸いと、建築史学者がどっと集まったんでしょうね。

 これだけ大規模な本堂の屋根を修復するには、莫大な金がかかる。重要文化財の復旧ということで、国、県、市の援助がないと困難だ。そうなると、まず、建物の調査をしなければならない。屋根を修理するんだから、屋根裏を調査しなければならない。
由香
 平常ならば、ご本尊、長谷観音がおわします本堂の屋根裏を、俗人がぞろぞろ這いずり回ることは、到底できることではないでしょうが、屋根の一部破損という状況では、やむを得なかった、というわけですね。お宝が、ぞろぞろ出てきましたか。

 お宝が、ぞろぞろと出てきましたよ。由香ちゃん、建物の建築年代が書いてある、屋根裏にあるものはなんでしょう。
由香
 覚えてますよ、廣瀬家の甘藷蔵のときに聞きました。棟札(むなふだ)でしょう。

 そのとおり。調査のときに発見された棟札によって、この本堂が、徳川幕府がじきじきに建築し、慶安3年(1650)に完成した建物であることが、判明した。もちろん、工事を担当した人の名前も書いてある。そのほかにも、慶安元年の銘が入った平瓦、さらに帳簿や図面もでてきた。
由香
 その結果、重要文化財から、国宝にランクアップしたわけですね。
 ところで、話は飛びますが、1650年といえば、6月24日に、「 旧大沢家は重文級の古民家 」のところで話があったように、旧大沢家は1664年の建築ですから、そして記録のある古民家としては関東以北で最古なんですから、早く重文にしてほしいですね。

 何とも言いようがないね。もう一度読みなおしておいてくれよ。
由香
 京都や奈良には、未調査の屋根裏がたくさんあるんでしょうね。

 たくさんあると思うよ。なかなか、俗人は屋根裏に入れてもらえないだろうからね。聖域だからね。全国にあると思うよ。習志野市内にも、あるよ。
由香
えっ、習志野市内にも、未調査のところがあるんですか。どこですか。




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2006年09月27日

津田沼の東漸寺5(真言宗豊山派)

由香
 何が違うんですか。東漸寺の本堂にお参りすれば、お寺なんだから、南無阿弥陀仏でしょう。みんなそう言ってるんじゃないんですか。

 わしも、宗教のことはよくわからんが、南無阿弥陀仏は、親鸞の浄土宗、浄土真宗のお寺に使ういい方でしょう。ここは宗派が違うんだよ。
由香
 何という宗派ですか。

 真言宗豊山派だよ。習志野市内のお寺は、ほとんどこの宗派だよ。ほら、本堂の前に石像が立っているだろう。あの方が宗祖じゃないか。
由香
 何という人ですか。

 お大師様だよ。弘法大師空海じゃろうが。
由香
 じゃあ、私は何と、となえればいいんですか。南無お大師様、南無お大師様ですか。

 それでいいんだよ。お大師様、つまり空海のことを、遍く照らす存在という意味で、遍照金剛という。だから、南無大師遍照金剛がいいんじゃろう。
由香
 それじゃあ、やり直します。ナムダイシヘンショウコンゴウ、ナムダイシヘンショウコンゴウ。
 でも、ここのご本尊は延命地蔵でしょう。なら、南無地蔵菩薩、南無地蔵菩薩でも、いいんじゃないでしょうか。

 いいと思うよ。ただ、ランクをつけるとしたら、如来、菩薩、明王の順になる。真言宗は大日如来を真の仏と信ずる仏教だから、南無大日如来と言えば、一番無難だろう。成田山でもこれでいいと思うよ。
由香
 私は、お正月の初詣に成田山へ行くと、南無阿弥陀仏といっていましたが、これもだめなんですか。

 成田山新勝寺も真言宗だから、南無大日如来というのが一番無難だよ。ただ、成田不動というように、成田は不動明王を祭っている。明王は大日如来の命を受ける家来のような存在なので、南無不動明王といっても、南無大日如来といっても問題ないと思うよ。
由香
 なんだか、ややこしくて、また頭がズキズキしてきましたよ。

 簡単だよ、浄土宗、浄土真宗は南無阿弥陀仏、真言宗は南無大日如来といっておけば問題ないんだから。
由香
 成田山は、豊山派ではないんですか。

 違うよ。真言宗智山派だよ。
由香
 そうすると、東漸寺は、成田山と同じ真言宗ですが、流派の違う豊山派なんですね。頭がずきずきしますね。しかし、そんな知識もなく、われわれは初詣に行っていて、いいんでしょうか。

 少しは勉強しておいた方が、ごりやくも大きいと思うよ。豊山派は豊臣秀吉と関係があるから、豊という字がついているといわれているよ。東京の、あのでっかい建物の護国寺もそうだ。護国寺の横にある学校は、日大豊山高校というじゃないか。
由香
 頭が爆発しそうです。もういいですから、この話はやめてもらえませんか。

 最後に一つ、真言宗豊山派の総本山は、奈良の長谷寺だ。木が倒れて国宝になった寺だよ。
由香
 どういうことですか。
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2006年09月26日

津田沼の東漸寺4

由香
 私は、どこでもお参りするときは、ナムアミダブツで通していますが、いけないんでしょうか。

 神社は、ふつう、二礼二拍一礼だろう。二回頭を下げて、二回手を打って、最後に一礼する。
由香
 二礼二拍一礼ですね。やってみます。

 津田沼の守護神、菊田神社でも、そのほかの有名な神社でも、このやり方が普通だから、覚えておいた方いいよ。恥をかくよ。
由香
 願い事は何にしましょうか。福禄寿は長寿の神様ということですから、爺さんが長生きできるように、お願いしておきましょう。

 わしも、そろそろあぶないからな。ありがとうよ。自分でもお願いしておこう。
由香
 福禄寿のお社の真後ろには、イチョウの大木がありますね。

 習志野名木百選にも選ばれた木だよ。イチョウの古木は、幹からたれさがっているたくさんの気根が、気味悪くて迫力があるね。昔は、おっぱいの出をよくするために、お参りをした人もいるというね。
 ところで、イチョウを銀杏以外の漢字で書けるかい。
由香
 書けませんね。イチョウを漢字で書ける人は、少ないんじゃないですか。孫という字が入っていたんじゃないですか。

 公孫樹と書く。公は爺さんのことを意味している。
由香
 そうすると、爺さんと孫の木という意味ですか。

 祖父の代に種をまいても、実つまり銀杏(ぎんなん)が採れるのは孫の代になるという、気の長い木なんじゃよ。
由香
 なんといっても、秋の黄葉がきれいですね。

 イチョウは、広葉樹か針葉樹か知ってるかい。
由香
 広い葉をしているんだから、広葉樹でしょう。

 ところが、分類は針葉樹なんだよ。ヨーロッパでは絶滅したと思われていたので、ダーウインが生きた化石と呼んだことは、有名だね。
由香
 それでは、次に延命地蔵をお祭りした、本堂にお参りしましょう。階段を上って、おさい銭を入れて、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ。

 だめだよ、それじゃ。
由香
 だって、ここはお寺なんだから、ナムアミダブツでしょう。

 違うんだよ。
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2006年09月25日

津田沼の東漸寺3

由香
 有名なお寺にも、稲荷神社があるところがありますが、そういういきさつがあるからなんですね。

 明治時代になって、神社とお寺は、元通りに分離されたんだが、お稲荷さんは庶民の人気が高かったので、お寺に残したんだろう。成田山新勝寺にも稲荷神社があるね。真言宗系には稲荷神社があることが多いらしいよ。
由香
 このあたりの旧家のお庭には、どこも稲荷神が祭ってありますよね。稲荷神社は、キツネを神様に祭ってあるんでしょう。

 とんでもない。うかのみたまのかみという稲の神様を祭ってあるんだよ。
由香
 うかのみたまの神っていうんですか。舌をかみそうな神様ですね。

 稲、つまりお米の神様にとって、こわいのはお米が大好きなネズミだ。このネズミを追い払ってくれるのが、キツネだよ。だから、キツネはネズミを追い払うための、神様の御使いなんだ。
由香
 だから、お稲荷さんには、キツネが置かれているんですね。私は、キツネが神様だと思っていましたよ。

 たいていの人は、うかのみたまの神なんて知らないから、覚えておくといいよ。 
由香
 それじゃ、このへんでお話はやめて、福禄寿のお社にお参りしましょう。おさい銭をいれて、一礼、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ。

 ちょっと待ってよ。神社でナムアミダブツはないだろう。
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2006年09月24日

津田沼の東漸寺2

由香
 山門を入ると、すぐ右に小さなお堂がありますね。

 習志野七福神のうち福禄寿を祭ったお社じゃ。
由香
 福禄寿も仏様ですか。

 いや、神様じゃ。七福神って言うじゃないか。
由香
 お寺は、仏様を供養するところでしょう。神様がいるのは、おかしいんじゃないですか。

 厳密にいえば、おかしいのかもしれんな。しかし、江戸時代に幕府が、神社もお寺も、どちらも宗教施設ということで、神社をお寺の管理下に置いた時代が、長くあったんじゃ。そんなことで、お寺に神様を祭っても、あまり気にしないんじゃろうな。
由香
 それじゃ、キリスト教の教会に七福神や、お地蔵様を祭ってもいいんですか。

 そんなことは知らんよ。しかし、神社とお寺をごっちゃにしたおかげで、取り壊されずにすんだ建物もあるよ。
由香
 どこの建物ですか。

 明治時代になって、新政府は、全国の城郭の解体命令を出した。新政府に抵抗する拠点になっては困る、ということだろうが、今になってみれば、たいへんな文化財の大破壊行為だった。上野の寛永寺も、徳川家の先祖を供養する菩提寺ということで、たくさんあったお堂の、ほとんどが解体されてしまった。五重塔も解体するように命じられたが、これは助かったんだ。
由香
 どうして、助かったんですか。

 上野には東照宮があるだろう。たまたま五重塔は、広大な寛永寺の敷地の中でも、東照宮のすぐ近くにあった。だから、寛永寺が、あの塔は神社である東照宮の施設であって、寛永寺の施設ではないと主張した。どういうわけか、これが認められて、現在、重要文化財になっている五重塔が生き残ったんじゃ。
由香
 五重塔は、神社にもありますか。

 五重塔は、仏舎利を祭る塔だから仏教施設じゃ。神社にあるわけがなかろう。しかし、神社とお寺をごっちゃにする風習が長く続いていたんで、話が通ってしまったんじゃろうな。なにはともあれ、貴重な文化財が一つでも残ったんだから、よかったじゃないか。
 
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2006年09月22日

津田沼の東漸寺1( とうぜんじ )

由香
 小倉珠算学院のある小道とは反対側には、東漸寺(とうぜんじ)がありますね。わいがや通りに面して、まず階段があって山門があります。山門の手前には六地蔵が並んでいますね。春には、山門右横の桜がたいへんきれいですよね。山門と山門の左にある鐘楼は、通りからは見上げるような位置にあるので、よく見えて、このあたりではもっとも日本的な、落ち着いた風景ですね。ほっとする景色って言うんでしょうか。

 ほんに、よい眺めじゃ。東漸寺は、久々田といわれた今の津田沼の、昔からの住民のご先祖が眠るお寺じゃな。東漸寺の本尊は、延命地蔵と市の本には書かれている。わしゃ、宗教のことはよくわからん。とにかく、ここにお参りをすれば地蔵菩薩が、救いようのないわしでも、極楽浄土に行けるようにしてくれるんじゃろうて。
由香
 門の扉はいつも開いているようですが、入ってみますか。

 お寺と神社は勝手に入っていいかという問題がある。どう思う。
由香
 そんなことは疑問に思うこともなく、入っていますが。

 寺には門がある。門には普通扉がついている。個人の家にも門があるように、門があれば勝手には入れない、という説がある。これに対し神社には門がない。鳥居に扉がついているのは見たことがない。だから神社には勝手に入っていいという説がある。どう思う。
由香
 鳥居だって、ここから先は神様の領域であることを示しているんでしょう。門の一種じゃあないんですか。

 門には、扉も、塀もついていることが多いが、鳥居に、扉も塀もついてはおらんな。
由香
 お寺も神社も賽銭箱がおいてありますね。浄財を集めるために置いてあるんですから、門が開いている以上は、営業中のようなもので、入っていいと思います。鳥居は、そもそも扉がないんで、閉められない。ということは24時間営業で浄財を集めていると考えて、いつでも入っていいんだと思いますよ。
 いったい何が正解なんですか。意地悪しないで、教えてくださいよ。

 わしもよくわからんのだ。ただ、みんなが入っているようなんで、わしも勝手に入っておるだけなんじゃよ。
由香
 正解を知らないで、変な問題を出さないでくださいよ。

 正解をうることよりも、論理的に考えることが重要なんじゃよ。由香説は、なかなか面白いよ。支持する人が多いんじゃないかな。
由香
 そんなことは、どうでもいいですから、階段を上って六地蔵さまにお参りした後、山門を入りましょう。

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2006年09月21日

小倉珠算学院

由香
 吉野園をすぎて少し行くと、右手に東漸寺、左手には小道があって、小倉珠算学院の看板がかかっていますね。

 小倉珠算学院は、もう50年以上もここで珠算教室を開いている。珠算では習志野市ナンバーワンの老舗だよ。このあたりの大人たちはほとんどここで、子供時代に、そろばんを習ったといっていいくらいの歴史がある。
由香
 でも、そろばんは電卓の登場で、一時はすたれかかったんではないんでしょうか。

 そのとおり。しかし、今年になって、皆さんもご存知のとおり、ソロバンが再評価されている。この小倉珠算学院もご多聞に漏れず、生徒の数が今年になって、急激に増加し、うれしい悲鳴をあげている。船橋市や八千代市などの近隣市からも、生徒が車でやってくるようになってしまった。そろばん塾は今まで生徒が減少し、看板を下ろすところが多かったのに、今年からは急変したんだ。スーパー1年生まで登場したという話だよ。
由香
 スーパー1年生って何ですか。

 ほかの塾から移ってきた小学1年生が、スパルタ教育を受けていたらしく、何と4年生5年生クラスの実力を持っているというんで、そう呼ばれているそうな。
由香
 小学生が、ソロバンで鍛えられるのはいいことだと思います。私の小学生の頃は、ソロバンがすたれていた時期なので、残念に思っているんです。習っておけばよかったと思っています。爺さんの経験では、ソロバンをやっておくことは、よいことだと思いますか。

 絶対によいと思う。それも有段者クラスになっておいたほうがいいね。高校生になると、全国レベルの実力テストがある。その数学で、大きな差をつけられるんだ。数学は、まず最初に、たくさんの計算問題が並んでいる。その後に、文章題や図形の問題が並んでいる。計算の遅い人は、計算問題だけで試験時間が終了してしまう。計算問題を早く終了できる人だけが、図形や文章題へ入っていけるんだ。ここで、ソロバンの力が発揮されるんだ。ソロバンで暗算が速くできる人は、より多くの数学の問題をやる時間的余裕があるんだよ。
由香
 数学のできる人が、高い点数を取れるということですか。

 進学校といわれる有名中学のホームページを見てごらん。入試の得点が書いてあるだろう。数学あるいは算数だけが、飛びぬけて高い得点になっているよ。数学(算数)以外の科目では差はつかないんだ。灘中をはじめ、有名進学校はどこも、数学(算数)ができる子供を集めようとしていることは、ホームページを分析すれば、すぐにわかると思うよ。
由香
 みなさん、50年以上の歴史ある小倉珠算学院でソロバンを習い、数学(算数)で差をつけられるようになりましょう。
 私も、今からやろうかしら。

 高校生は、一人か二人しかいないらしいが、七段、八段という世界らしいよ。
由香
 下は何級からあるんですか。

 よく知らんが、20級くらいじゃないか。幼稚園児が増えているそうだから。
由香
 あきらめます。
posted by 絢 at 19:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月20日

吉野園茶舗3


 吉野園茶舗が皇族だといっているんじゃあないよ。この吉野家に皇族が宿泊されたんだよ。
由香
 どうして、皇族の方が、この家に宿泊されたんですか。

 9月1日に説明したように、当時は国民皆兵の時代で、皇族といえども兵役の義務があった。津田沼は当時軍都といわれ、たくさんの部隊があったから、皇族がこられることも多く、その際に、地元の家を借りて、宿舎にされたんだよ。
由香
 ここにはどの皇族の方が、宿泊されたんですか。

 大正13年に、秩父宮殿下がお泊りになられている。
由香
 旅館ならまだしも、一般民家に突然皇族の方が泊まるといわれると、びっくりするでしょうね。

 将司正之輔という地元の小学校の校長を歴任された方が、「ならしの見聞記」という著書の中で当時の模様を記録されている。ここに引用させていただこう。
 「大正13年11月6日、午後7時に中島町長と伊藤助役が訪問され、今月9日夜、秩父宮殿下秋季演習のため、歩兵第三連隊第六中隊第一小隊長として参加、当久々田に御宿営、そのため宿舎の儀を吉野家にお願いしようとした。7日直ちに準備にかかったが、、「乍併空前の事なるが故」の言葉に含まれているように何をどう準備してよいかわからない。そこで伊藤助役と同道し、麻布歩兵第三連隊に出頭し、連隊副官及び侍従武官と面会し、舎主としての心得を伺い、帰途三越呉服店にて買物を済ませて、八時過ぎ帰宅する。
 留守中には、船橋警察署より警部補以下六名が来て、宅地並びに建物等の図面を書き、警衛の資料を作った。
 夜八時半、久々田駐在所巡査が尋ねきて、本署よりの注意を伝達して帰った。
 八日早朝大工勘兵衛、職人一名を雇い、入浴場周囲の手入れをし、とび職弥平(通称代屋)他職人二名を雇い、座敷、廊下、便所の掃除、浴場の清潔、家人小人数のため、午後はさらに二名の手伝いを入れて夜十時過ぎまでかかって工事を終了した。
 町役場からも人夫一名、庭掃除女二名を派遣され掃除に協力、舟橋警察より署長以下数名出張し来り、警戒の部署注意、さらに県庁より衛生技師と嘱託医がきて、舎主及び家族の健康診断、特に殿下に供進すべき食事、茶菓に至るまで、詳細にわたって注意をする。」
 このへんでやめておこう。
由香
 家を修理したり、家族全員が健康診断を受けさせられたりと、たいへんですね。そのうえ、ほとんどの部屋を殿下とお付きの方に提供するわけですから、家族はどこに寝るんでしょう。

 たぶん、親類の家に泊りに行ったんだろうね。将司先生の本には、このような貴重な記録が書かれているんで、興味深いね。
 この中で、とび職弥平(通称代屋)というのは、現在も大屋(だいや)の屋号で型枠業をしている地元の業者だよ。
由香
 当時の皇族の方々とこれだけ身近に接した地域は、習志野市以外にはないでしょうね。

 「習志野市史、別編、民族」の中にも、閑院宮妃殿下とのエピソードが書かれているよ。
 最近では、戦争の遺跡が文化財として見なおされている、習志野市は軍都といわれたんだから、戦争に関することを再調査し、歴史の一部として、観光などの資源に役立てるべきではないだろうか。
由香
 市役所が、これまで避けてきたテーマだけに、難しいんじゃないですか。

 そうかもしらんな。

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吉野園茶舗2

由香
 先代市長の家が、数々の歴史を刻んだとはどういうことですか。

 たびたび出てくる話で恐縮だが、千葉県には、松井天山の絵図がある。松井天山は昭和初期に、県内のほとんどの市町村の、商業目的つまり掲載料を取って絵図を書き、掲載料を払ってくれた金額によって、詳しく絵図に屋号や名前を書きこんだ、ということをした。このおかげで、千葉県内の市町村は、昭和初期の姿が絵図のかたちで詳しく記録されている。他の都道府県にはない、きわめて貴重な記録になっている。
 さて、ここに昭和3年の旧津田沼町の松井天山の絵図がある。吉野園茶舗のところはどう書かれているかね。
由香
 吉野信と読めますね。

 そのとおり、吉野信という人は、昭和6年から昭和21年まで、旧津田沼町の町長をつとめた人なんだよ。
由香
 ということは、この吉野園茶舗の家からは、町長と市長の二人の長を輩出した家柄なんですか。

 二人出すということは、津田沼きっての名家といえるだろう。今まで、二人の長を出した家はないからね。それだけじゃない、皇族とも関係しているんだ。
由香
 皇族ですか? まさか。

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2006年09月19日

吉野園茶舗

由香
 もと養老の滝だった、みずうま屋から、なかなか先へ進みませんね。

 みずうま屋からは、左に入る道がある。ここを入って20mほどいくと、小さな白壁の蔵と薬医門が見える。
由香
 現在は使われていない門のようですね。年輪を重ねた趣といい、竹が植えられた雰囲気といい、風情があっていいですね。あっ、表札がかかっていますね。吉野孝と書いてあるようですよ。

 吉野孝は初代市長白鳥義三郎、2代目大塚軍記に続く3代目市長の名前だね。
由香
 ここが先代市長の家なんですか。表の、わいがや通りから、ここまでつながっているんでしょう。

 表通りでは、タバコ屋と吉野園茶舗を開いている。習志野市ではナンバーワンの名家だよ。
由香
 先代市長の家というだけで、ナンバーワンの名家なんですか。

 それだけじゃあない。ここは数々の歴史をきざんだ家なんだ。
posted by 絢 at 20:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月18日

鷺沼中央墓苑


 話は変わるが、最近鷺沼中央墓苑の第2期募集の案内が出ていたよ。
由香
 鷺沼中央墓苑って何ですか。

 6月20日に話したが、源頼朝が石橋山の戦いで敗走し、船で房総半島に逃げ、散りじりになった武将たちが、再び集合した場所である鷺沼の御旅館といわれている、鈴木家の跡地が鷺沼中央墓苑なんだよ。
由香
 ここに墓地を購入して、お墓を建てれば、頼朝伝説のロマンを見ながら、永眠できるというわけですね。

 源頼朝は、NHKの大河ドラマになるように、今でもファンの多い歴史上の人物だよね。吾妻鏡に源頼朝と武将たちが鷺沼に集合したことが、はっきり書かれているんだから、鷺沼が頼朝伝説の地であることは間違いない。由香ちゃんも今から墓地を確保しておいたらどうかね。
由香
 私は、まだまだ先のことですから。それより爺さんこそ、準備が必要なんじゃないですか。

 敬老の日に何を言う。しかし、早い目に確保しておかんと、売り切れてしまうかもしれんな。
posted by 絢 at 18:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

都築工務店とは


 女髪結牡丹、現在のぼたん美容院は、その小道の奥にあるが、そのあたりは、かって都築工務店があったところだ。
由香
 都築(つづき)工務店って何ですか。

 地元で7代にわたり大工をしていた家だよ。現在はやっていないが、、東漸寺、瀬山家、三橋米店主屋など、地元の多くの家を建ててきた工務店だよ。
由香
 7代というといつ頃からでしょうか。

 約200年前くらいからになるね。
由香
 習志野市の本では、丹生神社と八剣神社が文化文政年間、つまり1800年代の前期に建てられたと書かれていますが、都築工務店が建てたんでしょうか。

 市では、寺社建築の調査を全くしていないので、わからない。少なくとも、図面を起こして、記録だけでもとっておいてほしいね。郷土資料館がないことの影響がこんなところにも出ているね。
由香
 昭和になってからも、市内の西光寺や薬師寺が焼失し、東漸寺も何度も火災にあっていると書かれています。にもかかわらず、全く建物の図面や写真などの記録をとっていないので、以前の建物がどんな建物だったのか全くわかりませんね。

 習志野市は、文教住宅都市を宣言しているが、文化財の調査は、土器の発掘以外はほとんどしていない状況だよ。文化財というのは、戦国時代以前のものを言うと考えているように思える。そんな考えはとっくに時代遅れだね。
由香
 6月22日の原爆ドームの話で、すでに文化財の対象が戦後のものまで及んでいるということを聞きました。戦後の、第1号公団住宅が文化財になり、昭和33年建築の東京タワーも2年後に文化財になる時代なんですからね。

 江戸時代はもとより、明治、大正、昭和初期でも立派な文化財なんだよ。みんなが教科書なんかで良くみる、明治以降の近代絵画も、いま次々と重要文化財に指定されている。6月22日の話を良く聞いて、文化財に対する認識を変えてもらいたいね。
由香
 習志野市役所のみなさん、地元の文化をもっと調査研究し、将来の市民から批判されないようにしてくださいね。ところで、市内の寺社で登録文化財になりうる建物はどれでしょう。

 丹生(にゅう)神社、八剣(やつるぎ)神社、東漸寺(とうぜんじ)、根(ね)神社はオーケーだろう。そのほかの寺社も、調べればもっとあると思うよ。
由香
 国の登録文化財になれば、市民の視線も違ってきます。まず、登録文化財にして、市民の意識を変えれば、文化財を大事にしようという気持ちが、醸成されてくると思いますよ。

 いいこと言うじゃないか。
posted by 絢 at 07:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月17日

80年やってる美容院

由香
 以前、養老の滝だった、みずうま屋という居酒屋の前に、バス停があって、そこから話がそれて行きましたね。

 向い側、少し駅よりに、シャッターが閉まったままの建物がある。ここは10年くらい前は、住友銀行の支店だった。駅前商店街の入口近くで、10年も閉めたままでは、町が暗くなる。市で住友に頼んで、何でもいいからシャッターを開けるようにしてもらったらどうかな、といつも思う。定期借家権が実現したんだから。
由香
 定期借家権って何ですか。

 由香ちゃん。友人から5年間の約束で物を借りて、5年経ったらどうする。
由香
 返しますよ。当たり前でしょう。5年経ったんだから。

 そうだろう。ところが、土地や建物は、約束の期限がきても、返さなくていいという法律があって、貸していた地主や家主の人が、建替えたり、自分が使いたくても使えなくて、たいへんに困っていたんだ。
由香
 そんな馬鹿な話がありますか。年月を決めて借りたんだから、その日が来たら、返すのが当たり前でしょう。

 それが世界の常識なんだが、日本では通用しないんだ。
由香
 なぜ、返さなくていいという法律ができたんですか。

 戦争が原因なんだ。兵隊さんが、お国のために外国で敵と戦っているときに、国内の家族が住む借地や借家が、期限が来て立ち退いてしまったとする。兵隊さんが帰国したときに、元の家がなくなっているんでは、かわいそうだということで、期限がきても、よほどのこと(正当事由といいます)がない限り、返さないでいいという法律が、昭和16年にできたんだよ。日本がアメリカと戦争を始めた年だね。
由香
 戦争という特殊事情の時は、それでもいいかもしれませんね。でも、戦争が終わって、もう60年以上も経っていますよ。

 そこで、期限が来たら、必ず返さなければならないという法律を、平成4年に、土地について作ったんだ。ただし、それ以前から借りている土地には、適用されないがね。
由香
 建物の借家にはなかったんですか。

 なかったんだ。ところが、数年前に、借家にも、期限が来たら必ず返さなければならない、という法律がやっとできたんだ。
由香
 ようするに、土地でも建物でも、一度貸すと、よほどのことがない限り返してもらうことができないので、土地や建物を貸す人が少なくなってしまった結果、ここもシャッターが閉まったままになっている。しかし、定期借地権と定期借家権という、期限が来たら必ず返してもらえることができる法律ができたんだから、住友は誰かに貸して、シャッターを開けて、町を明るくしてほしい、ということですね。

 その通り。
由香
 私は、やっと理解できました。爺さんの話についていくのは、たいへんですよ。

 ようするに、シャッターを開けても大丈夫な法律ができたんだから、開けてくれといいたいだけなんじゃよ。ビルを持っているんだから、その程度の知識はあるじゃろうに。
由香
 あたまが、ズキズキしてきました。次へ行ってもらえませんか。なにしろ、むずかしい話が多いんで。

 みずうま屋の向かいには、ぼたん美容院の赤い看板が出ている。その小道の奥にあるんだが、松井天山の絵図にも出ているよ。
由香
 えーっ、昭和3年の頃に、もう美容院をやっていたんですか。80年もやっているんですか。

 当時は、京成津田沼駅の向こう側にあったんだが、ここに移ったんだよ。昭和3年の絵図では、美容院は何と書かれているか、考えてごらん。
由香
 まさかヘアーメイクじゃないでしょうに。想像がつきません。

 「 女髪結牡丹 」と書かれている。
由香
 おんなかみゆい、って言ったんですか、美容院のことを。

 最近はあまり聞かんが、かみゆいの亭主という言葉があっただろう。
由香
 美容院の旦那さんのことですか。

 いや、単純にそういう事じゃないんだよ。
由香
 美容院の経営者が女性で、その夫のことですか。

 いや、美容院に限った話じゃあないんだよ。高校生だと、知らんかなー。
由香
 今風に言えば、逆玉に乗った男性ということでしょうか。

 よう知っとるんじゃないか。
posted by 絢 at 07:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月15日

TJVに入るとは?


 バブル時代にフランスに行った。たぶんパリだと思うが、夕方ホテルでチェックインを済ませた後、フラフラと散歩に出た。近くに駅があったんで、フラフラと入っていった。するとTJVが停車しているのが見えた。近くで見ようと近づいたら、すぐそばまで行った。扉が開いていたので、入った。
由香
 ちょっと待ってくださいよ。日本で新幹線に乗るには、まず在来線の改札を入り、乗車券と特急券を持って、新幹線の改札を通らないと、ホームへは行けませんよ。2重のチェックがあるはずですよ。

 今はどうか知らないが、不思議なことに、当時はフラフラ散歩しているだけで、夕方のラッシュ時のTJVまで、ノーチェックで行けたんだ。扉が開いていたから、入った。入ったら、座席に空席があったから座った。
由香
 ちょっと待ってくださいよ。乗車券も特急券も持たずに、座ってどうするんですか。発車したらたいへんですよ。

 座りごこちを確かめ、内部の様子を見た後、すぐに出ましたよ。
 散歩していたら、そのままTJVの車内に入ってしまった。乗車券を持っているわけじゃあないから、乗車したとはいえんじゃろう。見るだけのつもりで近寄ったら、改札も何もないのでTJVの中に入ってしまったんじゃよ。
由香
 テロの恐怖におびえる今よりも、当時の方がのんびりしてたんでしょうか。それとも、今でも同じなんでしょうか。パリで電車には乗らなかったんですか。

 地下鉄に乗ったよ。自動販売機にお金を入れ、ボタンを押したら、切符がたくさん出てきたよ。
由香
 どういうことですか。

 フランス語がわからんので、適当に押したら回数券だったらしくて、たくさん出てきてしもうたんじゃ。
由香
 駅員に言って、払い戻し、してもらえば良いじゃないですか。

 それをフランス語で何と言うんじゃね。
由香
 知りませんよ。

 わしも知らん。だから、往復2枚使って、残りの払い戻しはあきらめた。混雑している駅で、いそがしそうな駅員に日本語で話しかける勇気はなかった。
由香
 外国まで行って、珍道中やっているんですね。ところで、パリの地下鉄の回数券は、やっぱり11枚出てきましたか。

 そんなもの、覚えとるわけがなかろうが。
由香
 津田沼街道はどうなったんですか。


posted by 絢 at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月14日

関東と関西の違いから

由香
 爺さん、コメントが来ていまして、今では大阪でも、並んでバスや電車を待っているそうですよ。

 おおそうか。大阪も変わってしもうたわ。わしの知っている昭和40年代までは、並んでおる人はおらんかったよ。
由香
 それに、エレベーターの件は、大阪万博の時に、外国の人がそういう乗り方をしていたかららしいですよ。

 わしも大阪万博には2回行ったが、そんなことまでは覚えておらんよ。とにかく人、人、人で人を見に行ったようで、展示物の記憶がない。月の石などとうてい見られんかったわ。インド館で、本物のインドカレーを食べたが、あまりにも辛くて、一口でやめたことだけを良く覚えておる。高い値段を払って、一口で終わったので、悔しくて今でも覚えておる。
由香
 爺さんの関西の話しも、今では関東と変わらなくなってきているんじゃあないですか。

 電気は違うぞ。50サイクルと60サイクルは、今でも違うぞ。おでんは今でも関東だきと言うんじゃろう。
由香
 電気が違うと、JR西日本とJR東日本では、電車の走り方が違うんですか。

 そんなことは知らんよ。同じだろう。電車で違うといえば、軌道の広さだろう。広軌と狭軌がある。
由香
 西と東で、広さが違うんですか。

 もともと国鉄でいっしょだったんだから、そんなことはありえないだろう。
由香
 最初から国鉄だったんですか。

 最初は民間の鉄道だった。ここの総武線も、もともとは民営だったが、明治40年に国有化されている。たぶん、JRに問合せると、津田沼駅は明治40年にできました、と答えられるかもしれん。しかし、それは国鉄になったときをいうんで、民間のときは明治28年に駅ができているんじゃ。
由香
 日本の鉄道は狭軌ですよね。新幹線が広軌ですよね。

 中国旅行をしたときに、中国は広軌なんで、車内が広かったように記憶しておる。それに対し、TJVは狭かったなー。
由香
 えっ、フランスの新幹線TJVに乗ったことがあるんですか。

 乗ったことはないが、入ったんだ。
由香
 だから、TJVに乗車したんでしょ。

 乗車はしていないが、入ったんだよ。
由香
 なんのことやら、またわからないことを言い出しましたね。

posted by 絢 at 23:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月13日

バス停にて

由香
 高梨堂を過ぎると、居酒屋の「みずうま屋」、があります。ここは数年前まで、養老の滝だったですね。店はそのままで名前だけ変わりました。その前が京成バスの京成津田沼駅のバス停ですね。

 今日もたくさん人が一列に並んでいるね。
由香
 関西では違うんですよね。

 たとえば、大阪では人はバス停で並ばない。バス停の周辺で、ただ立っているだけなんだよ。
由香
 順番はどうするんですか。

 バスがくれば、早く乗りたい人が先に乗り、遅く乗って良い人は、あとから乗るんだよ。
由香
 ずるいじゃないですか。後から来て先に乗るなんて。

 バス停に到着した順番に、一列に並んで乗るのが関東方式だが、早く乗りたい人が先に乗るのが大阪方式だよ。どっちがいいんだろうね。
由香
 大阪方式は不公平です。力の強いものが先に乗る、弱肉強食のやり方だと思います。

 必ずしもそうではないよ。バスの乗車口に寄ってきた人々は、お互いの状況を見て、互いに譲り合いながら乗っているよ。
由香
 大阪の人は、関東の一列方式を見て、どう思っているのかしら。

 雨の日に、足元をびしょぬれにしながらも、黙々と一列に並んでいる姿は、おかしいと思っている。大阪では、バスが来るまでは、軒下や壁ぎわ、アーケードの下など雨の当たりにくい所で待っている。バスが来てから、出て行けば良いと思っている。その方が合理的ではないかい。
由香
 でも、若い人が強引に入って行くのを、止めることはできないでしょう。

 それは道徳の問題であって、その人の人間性の問題だよ。若い人だって、疲れていて、どうしても座席に座りたい日もあるだろう。一列方式は、後からきた人の、体調を考慮しない、画一方式だともいえるだろう。
由香
 とにかくバラバラでバス停で待つことは、私はいやなんです。大阪では、エスカレーターの乗り方も違うそうですね。

 関東では、エスカレーターで歩く人は右側を歩くが、大阪では左側を歩く。その理由は、わしゃ知らん。


posted by 絢 at 19:24| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月12日

わいがや通りの高梨堂


 わいがや通りも店が変わってしまっておる。昔からある店を紹介しようかな。
由香
 わいがや通りへ入ってすぐ、左側に高梨堂のパン屋さんがありますね。

 ここは、松井天山の昭和3年の絵図にも、「タカナシ」と出ている。当時は何の店だったのかわからないが、戦後はケーキ屋さんだった。今はパン屋さんとして、がんばっている。
由香
 そういえば、最近パン屋さんが増えましたね。チエ・コモのパン屋さんとアンポンタンが新顔でしょうか。

 チエ・コモというのは、マロニエ橋を渡って、そのまままっすぐ100mほど行った所にある、フランス料理店じゃな。どういうわけか、開店以来人気があって、高級フランス料理に、したつづみを打つ人が多いそうな。
 その勢いで、パン屋さんまで開業してしまった。市内の店が繁盛することは、いいことじゃ。
由香
 アンポンタンは、国道14号、京成津田沼駅入口近くにできた店で、私が良く利用しています。朝早く行くと、すごいたくさんのパンが、セットで信じられないような値段で買えるんです。子供が多いお母さん方に、大人気ですよ。

 新しいパン屋さんが増えているようじゃが、この高梨堂も忘れんようにお願いしますよ。
由香
 爺さんはパンは好きですか。

 パンは大好きなんじゃが、食べ過ぎてすぐに太ってしまう。だから、なるべく食べんように、努力している。わしの目の前には、おいしそうなパンを出さんようにしてくれよ。

posted by 絢 at 21:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月11日

わいがや通りの昔


 京成津田沼駅南口から、国道14号までの500mは、旧津田沼町のメインストリートだった。明治時代になって、自由に商売ができるようになると、人々は、現在は国道14号になっている、当時の海岸通りに、次々と建物を建て、船で甘藷や米、薪、炭を東京に運んでいた。
由香
 内陸部の純農村からの物資を、荷車に載せて、津田沼の海岸まで運んだ、重要な道路だったんですね。

 東京からの帰り舟には、東京の糞尿、ゴミが積まれていた。糞尿は、すぐに荷車に積まれ、肥料として純農村へ運ばれた。ゴミは、ゴミ河岸といわれた、海岸沿いに積み上げられ、金属などの再利用できるものを、取り除いたあとは肥料になった。
由香
 ゴミが肥料になるんですか。

 当時は、ビニールなんてなかった。木と紙の文化の国だから、ゴミも木と紙と食べ物の残り程度だった。だから、すべて肥料になった。とくに、ゴミから作った肥料は、米よりも芋に適していたので、甘藷、つまりサツマイモの特産地だった当時としては、たいへん有用なものだったんだ。
由香
 津田沼が、かってサツマイモの特産地であったことは、7月12日からに説明されていましたね。当時の道幅は、どの程度だったんでしょうか。

 荷車が交互通行できる程度と考えていいよ。実は、この先に、江戸時代の上総海道だった道が、現在も狭いまま残っている部分がある。450m先の、国道14号の1本手前の道なんだ。そこまでいけば、教えてあげるよ。その狭さに、びっくりするよ。


posted by 絢 at 19:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月10日

習志野タウンテレビのビデオ

由香
 習志野タウンテレビが、市内のいろいろな行事のビデオを撮っているんですが、これが大久保図書館にしかないんです。

 何を撮っているんじゃ。
由香
 七年祭やきらっと祭り、谷津干潟やバラ園、鹿野山の体験学習のようす、そのほかありとあらゆるビデオのストックが、大久保図書館にだけ、現物が置かれていて、他の図書館にはないので、借りにくいんです。

 習志野市は、官舎や大企業の社宅が多いんで、転勤でやってくる人がたいへんに多い。市内のことを知るには、ビデオは手っ取り早くて便利じゃが、大久保以外に置いていないんでは、不便じゃな。他の図書館には、目録が置いてあるんじゃろうが、現物が見たいということじゃな。
由香
 ビデオの存在自体を知らない市民が、ほとんどじゃあないでしょうか。

 わしも、細かいことを言わせてもらえば、郷土資料を調べるのに、郷土資料室がないんで不便なんだ。大久保図書館に郷土資料は集中してあるといっているが、閉架書庫に入っているものが多く、不便じゃ。開架には、図書館によって、置いてある本が違うので、あっちこっち図書館めぐりをしないとならないんで、困っておる。
由香
 郷土資料館がないという、珍しい市なんですから、郷土資料室くらい独立させてほしいですね。ところで、爺さんはどこで郷土資料を調べているんですか。

 市内の図書館はもとより、県立中央図書館、県公文書館、国会図書館も利用するが、何といっても、充実しているのは、船橋西図書館じゃろう。ときどき、松戸や佐倉の図書館にも行くことがあるよ。
由香
 ご苦労様です。それではわいがや通りへ入って行きましょう。

 それから、最近は読者からコメントや足跡にたくさん入ってくるようになっている。お返事はいずれ考えることにするが、とりあえず、ここでお礼だけを申し述べておくよ。
posted by 絢 at 10:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月09日

京成津田沼駅周辺


 由香ちゃん、京成津田沼駅周辺で、気になることが何かないかい。この機会に言っておけば、実現するかもしれんからな。
由香
 京成津田沼駅周辺に図書館がほしいんです。習志野市は、こんな面積の小さい市なのに、たくさん図書館があるんですが、市の中心部である津田沼にだけないんです。休みの日に本を借りても、返しに行くのが、遠くてたいへんなんです。市役所や京成津田沼駅周辺に、本を返すところがあれば便利なんですが。

 それなら、サンロードと呼ばれる駅ビルの5階が良いかもしれんな。ここは市が借りて男女共同参画事業、高齢者就職相談窓口などが置かれているが、ここを市立図書館の本の返却場所にしてもらうと良いんじゃないか。
由香
 あそこなら、休日に借りた本が、平日に、通勤通学時に返却できて便利ですね。

 津田沼に図書館を作れないんなら、せめて時間外返却場所だけでも、サービスしてほしいな。ほかに要望はないかな。
由香
 ビデオの件なんですが。

 何じゃと。
posted by 絢 at 11:11| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月08日

京成津田沼駅前の現状


 京成津田沼駅前も、最近になって変わってきたね。食事の店が多くなった。ラーメンのチェーン店、マクドナルド、スパゲッティの店、松屋、それに居酒屋も増えてきた。
由香
 京成津田沼駅前は、以前は何もないところでしたが、クレストホテルが閉店したあと、逆に今言われたような食事の店や居酒屋が増えましたね。どうしてでしょう。

 よくわからん。たぶん労組会館のおかげではなかろうか。
由香
 どこの労組ですか。

 いまさっき、津田沼小学校の方から下りてきた坂の途中の南側に、京成電鉄の労働組合会館が、5年くらい前に、市川市の方から移転してきたんじゃ。間口がせまいので小さく見えるが、敷地が480坪もあるんじゃよ。
由香
 それで、京成の社員の方が津田沼によくこられるようになったということでしょうか。習志野商工会議所がマロニエ橋のところに新社屋を建てたことも影響しているんでしょうか。

 最近では、この2つの建物程度しか増えていないんじゃが、飲食店は多様に増えてくれたんで、この辺の市民にとってはありがたいことじゃ。
由香
 大企業の施設ができただけで、駅前がこんなに変わるんですから、すごいですね。旧クレストホテルも、どこかの大企業が買い取ってくれれば良いですね。

 あと考えられることは、最近アパートや分譲住宅が増えたことじゃ。都心回帰現象といって、遠くに住んでいた人が、東京に近いところへ戻ってきているという現象じゃ。市川市や船橋市は、駅に近いところに土地が残っていなかったが、津田沼には結構空き地があった。そこが、マンション、アパート、分譲住宅に、どんどん開発されている。無秩序な開発になりつつあるので、心配じゃ。
由香
 京成津田沼駅には特急が止るし、JR津田沼駅も総武線快速が止るから、東京まで早くて便利ですからね。都心回帰現象で、津田沼に住む人が増えたということも、影響しているんでしょうね。
posted by 絢 at 23:42| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月07日

旧クレストホテルをどうする。

由香
 開かずの踏切を戻って、南口側にきました。このまままっすぐ行けば。南口商店街、通称わいがや通りですね。

 あれを見てごらん。左手の、セントラルスポーツが入ってる高層の建物だ。以前は帝国ホテル系列のクレストホテルだったが、わずか10年ほどで、店を閉めてしまった。あれだけ立派な建物が、京成津田沼駅前にあるのに、もったいないね。
由香
 東京のお台場に、ホテルや展示場などの施設ができてから、幕張を含め、千葉のホテルは、だめになりましたね。超高層の幕張プリンスホテルも、アパホテルに変わってしまいましたね。

 由香ちゃん。ホテルの建物を再利用するとしたら、何が良いと思うかね。
由香
 フロアが、小さな個室に区切られているから、再利用するするとしたら、小さな部屋でする商売が良いんじゃないんでしょうか。
 たとえば、占いはどうでしょう。全国から、有名な占い師を集め、占い師ビルにする。
 最近は。NPO 法人がたくさん作られているので、NPO法人の事務所を集めたビルにする。
 部屋をそのままマンションにして、ワンルームマンションにする。あるいは、老人介護施設にする。
 ウィークリーマンション、マンスリーマンションにする。
 発想を転換して、墓地にする。

 何じゃと。
由香
 成田山新勝寺に、建物を買い取ってもらって、都市型墓地にしてもらう。

 それじゃセントラルスポーツが逃げ出すじゃろうが。
 津田沼駅前に墓地ビルがあれば、墓参りには便利じゃろうがな。成田まで行かなくてすむし、うまく行けば、あっちこっちに、駅前墓地ビルが建つじゃろう。
由香
 どうしてホテルは、商売が成り立たないんですか。

 今は、機械化の時代だよ。パソコンの時代だよ。ところが、ホテルは機械では処理できない仕事が多すぎるんじゃよ。毎朝、シーツを取替える。室内の清掃をする。アメニティグッズを取替える。レストランや、ラウンジも必要だろう。ありとあらゆる場面で人間の力が必要で、機械化ができないんだよ。これでは、省力化もできないし、人件費の負担がたいへんなんだよ。
由香
 お客さんがこなければ、すぐに経営が苦しくなる体質があるんですね。宿泊客が少なくても、清掃員やシーツなどを取替える人の給料は減らせませんからね。

 わしも、ホテルの経営者になったことがないので、良く知らんが、労働集約体質が問題なんだろうて。
由香
 私の案では、どうにもなりそうにないので、わいがや通りへ行きましょうよ。


 

posted by 絢 at 21:25| Comment(1) | TrackBack(1) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月06日

習志野最古の老舗

由香
 その植草家はどこにあるんですか。

 すぐそこに京成電車の踏切があるだろう。開かずの踏切として有名な踏切じゃ。そこを渡って、30mほどいくと左手に、古めかしい、誰が見ても驚くような建物があるじゃろうが。
由香
 屋根にはトタンがかぶせてありますが、この下は茅葺きですか。

 数年前まで、草葺きの屋根のままだった植草米店じゃ。「習志野の市民遺産」、という本によると、享保年間からの、習志野最古の老舗と書かれている。
由香
 享保年間とは、西暦何年頃ですか。

 えーっと、いつ頃だったかな。たしか1720年代だったよ。
由香
 それじゃ、300年近くも商店を開いているんですか。その頃から米屋さんをやっていたんですか。

 昔は、薪炭商だったと書かれている。米穀店を開業したのは、明治14年と書いてある本もあったよ。
由香
 商店といっても、昔ながらの古民家に、米屋の看板をかけたようなお店ですね。

 昔の商家というと、2階建ての町屋を思い浮かべるが、このような普通の平屋の民家の土間を店に改造し、看板を付けただけの商店を、農家風商店と言うそうじゃ。昔は、田舎の商店は、みんなこのような農家風商店じゃったが、今ではたいへん珍しいお店なんじゃよ。
由香
 屋根の一番上、棟の部分が変わっていますね。すごく分厚い棟ですね。

 瓦屋根なら、棟がわらを乗せて、すっきりするが、茅葺きなので、棟の部分に草が両側から集中する。そこに雨が入らないように、かぶせをする。だからあんなに分厚い感じになる。草葺き屋根の本を見ると、くわしい説明が書いてあったような気がするが、忘れてしもうたわ。
由香
 建築年代は、いつ頃でしょう。

 わからない。将来建替え、あるいは保存するときに市が正式に調査してほしいね。少なくとも、国登録文化財なら、すぐにでもなる建物だよ。
由香
 またまた出ましたね、登録文化財が。今すぐ、あるいはまもなく登録文化財にできるのは、瀬山邸、津田沼小学校についで3件目ですね。

 わしにやらせれば、この家からはたくさんの登録文化財になる建物を見つけてやれるが、所有者も市も文化財に関心がなければ、どうにもならんよ。
由香
 政府は、建物が文化財になることの、ステータスを高めるようにしないといけませんね。文化財になると、建替えできない、旧工法は費用がかかる、住みにくい、補助金もない、技術者も少ない、という状況のままでは、文化財になることを拒否されて当然ですからね。

 とにかく京成津田沼駅北口から、わずか30mほどのところに、たぶん江戸時代か、明治時代に建てられた茅葺きの建物が数棟、群になって建っているんだから、これを文化財にしない手はないと思う。文化財審議委員は、何をしているんだという心境だね。十王堂もそうだったが。
由香
 それでは、開かずの踏切の方へもどり、南口の商店街、わいがや通りに行きましょうか。
posted by 絢 at 21:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月05日

習志野市と縄文時代


 縄文時代から続いた生活とは、半農半漁の生活じゃよ。7月29日に説明したように、東京湾の最奥部はたいへんな遠浅の海だった。潮が引くと、はるか遠くまで干潟が現れ、潮干狩りができた。どんな飢きんのときでも、海は食料をふんだんに提供してくれた。
由香
 縄文時代からの生活と決別するとは、干潟を埋め立ててしまうこと。海から幸を得られなくする、ということですね。

 昭和40年代に入った頃、人々は漁業権を放棄する代わりに補償金をもらった。補償金をもらった人たちは、次々と自宅を新築し、庭を築いた。その結果、昭和40年代に、伝統的建築の2階建てがたくさん建築されたんだよ。
由香
 それなら、そうした建物だらけにならなければならないと思うんですが、そんなには建っていませんよね。

 わしも人から聞いた話だが、昔からの比較的裕福な人々は、補償金をもらわなかったそうだ。当時、あまり裕福でなかった人々に、補償金を譲ったと聞いている。この地域では、昔から、裕福でない人々を支援する習慣があったようなんじゃ。
由香
 でも、漁業権の補償金のおかげで、伝統的建築群が残ったんだからよかったですね。

 こうした建物も、そろそろ築40年を迎えようとしている。現代の建築基準には、適合していない建物だし、古めかしい建物では、嫁がこないという問題もある。何らかの保存方法を考えないと、薄っぺらい建物に建て替わっていく恐れが十分にある。
由香
 若い女性も、伝統的建築の価値を認めて、お嫁に行くようにしましょう。私も、ご縁があったらよろしくお願いします。こんな家には住めない時代が迫っているんですから。

 まだ、高校生じゃろうが。
由香
 このあたりには、古い建物はほかにはないんでしょうか。

 植草家があるよ。
posted by 絢 at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月04日

習志野市内の最後の伝統的建築群


 津田沼小学校は丘の上にあるが、その前を通って、信号のところで、皇族の話しになったんだが、信号から先は下り坂になっている。昔はこの丘を背景にして、北西の風を防ぐように、この坂の下に集落ができた。
由香
 現在は、京成津田沼駅南口のロータリーになっているところに行きつきますね、この坂は。

 このあたりが久々田本郷といわれたところで、江戸時代の初期から中期にかけて、最初に人々が集落を作ったところなんだ。
由香
 久々田(くぐた)、現在の津田沼で、最も古い地域ということですが、京成の駅前なんで、古さを全く感じさせないですね。

 坂を下りている途中の、左側、つまり北側に黒板塀のつづく家があるだろう。大きなマンションの先だよ。中の建物はすべて平屋だね。こういう家は古い家だね。平屋(ひらや)、つまり1階だけの家なんて最近は建てないだろう。瓦は新しくなっているが、建物本体は戦前の建物だろうね。こういう建物を見ると建築年代を調べたくなってしまうね。
由香
 それに、7月1日に津田沼町郷土教育資料のところで話されたように、戦前の津田沼町は板塀の町といわれたんですよね。この黒板塀といい、平屋だけの建物がある姿といい、旧津田沼町時代の雰囲気を残した、貴重なお宅ですね。

 道路拡張で、敷地が切られてこうなったんだろうが、往時の津田沼の姿を残す数少ない家なんで、良く見ておくといいよ。
 この家の角に十王堂がある。この十王堂については、習志野市史に説明があるんで、ここでは省略するが、文化財的価値の高いものが奉納されてきているようなので、ぜひ再評価をしてほしいと思っている。
由香
 この黒板塀のお隣の2階建ての家も、まるでお城のような建物で、感じがいいじゃないですか。

 反対側にあるマクドナルドの2階から良く見えるお宅だね。このような屋根の一部が後退しているのを入母屋(いりもや)造りという。市内では昭和40年代に、入母屋造りの2階建ての民家がたくさん造られている。伝統的建築手法の家が建てられた最後に時期に、たくさん建てられたのは、不幸中の幸いといっていいんじゃなかろうか。
由香
 どうして、昭和40年代にお城のような民家が、たくさん建てられたんでしょうか。

 日本の伝統的建築手法で建てられた、重厚な瓦屋根の民家は、昭和40年代が最後で、それ以降は、現在のような安っぽいというか、薄っぺらいというか、地震には強いかもしれないが、何とも味気ない、接着剤ではり合わせたような家になってしまっている。
由香
 この地域で、伝統的建築手法で建てられた民家が、昭和40年代を最後に、なくなってしまったんですよね。どうして40年代に、たくさん建てられたんですか。

 それは、縄文時代から続いた生活を放棄した、その見返りなんじゃよ。
由香
 縄文時代から続いた生活って何ですか。この辺の人々は、最近まで竪穴住居に住んでいた、とでもいわれるんですか。縄文時代と、伝統的建築と、どういう関係があるんですか。なんのことやら、さっぱりわかりません。

posted by 絢 at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月02日

習志野市と皇族2

由香
 このあたりで、ほかに皇族が住まわれた家はないんでしょうか。

 元町長の吉野さんのお宅、それに三橋権四郎家、があるが、これから歩いて行く先にあるので、そのときに話そう。
由香
 宮様がお住まいになる、専用の住宅を建てたということはなかったんでしょうか。

 あったよ。軍隊に近い大久保に、三角屋根の洋館が、建てられたそうだ。会澤武という地元の人が書いた、「習志野の市民遺産」という本に、少し紹介されている。今も残っていれば、すぐに文化財になる建物だが、どういうわけか、戦後すぐに取り壊されてしまったらしいんだ。
由香
 宮様用に造った住宅なら、よい木材をふんだんに使った建物だったでしょうに。これも、もったいないことをしましたね。

 
posted by 絢 at 22:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月01日

習志野市と皇族1


 皇族というのは現在は6宮家ある。戦前はもっと多く14家あった。このうち旧津田沼町に滞在された皇族は、閑院宮(かんいんのみや)殿下、竹田宮殿下、三笠宮殿下、秩父宮殿下、賀陽宮(かやのみや)殿下がある。
由香
 今でも続く宮家の名前もありますが、どうして皇族の方々が、津田沼に住んでおられたのですか。

 当時は国民皆兵の時代だった。皇族といえども兵役を免れることができなかった。津田沼には多くの軍隊の部隊があったので、軍人としてこられたんだ。隊長、あるいはそれと同等の格でこられたことは、もちろんだ。
由香
 どこに住まわれたんでしょうか。

 地元の有力者の家を借りてお住みになった。この赤別荘には、時期は異なるが、竹田宮殿下と三笠宮殿下が、住まわれたことが記録されている。もし、今でも建物が残っていたら、文化財になったことは間違いないよ。昭和初期の赤瓦の家というだけでも、珍しいが、二人の殿下の宿舎として使われたんだから、歴史に残る建物だったんだよ。
由香
 昭和40年代に取り壊されたそうですが、もったいないことをしましたね。

 この丘の上の赤別荘から、殿下がたくさんの警護の人を引き連れて、黒いマントを風になびかせ、馬にまたがりさっそうと、この信号のところを通過して、大久保の連隊へ行かれた姿を想像してごらん。快傑ゾロのように、かっこいいだろう。
由香
 何ですか、快傑ゾロって。

 あれだよ。馬にまたがり、黒いマントをなびかせ、さっそうと、っていうやつだよ。
由香
 わかりません。
posted by 絢 at 21:41| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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