2006年11月30日

わいがや通り16


 とにかく、この大屋(だいや)さんも、津田沼の近代建築工事史に欠かせない存在なので、知っていることは記録しておこうと思っている。
由香
 何の事ですか。

 この初代の弥平さんは、元は植木屋だったそうだ。植木職人も高いはしごや足場に乗って仕事をするので、足場を組む専門職としてのとび職に自然に移っていったようだよ。
由香
 江戸時代は、左官職人が足場を組んでいたんですから、とび職という言葉はなかったんでしょう。

 江戸時代は、このあたりではとび職という言葉はなかったといわれている。明治になって、左官職人の仕事から、基礎コンクリートを打ったり、足場を組む仕事が、分離独立して、とび職という言葉が生まれたといわれている。
由香
 ようするに、現在は、とび職というのは、足場を組むだけでなく、基礎コンクリートの打設までを仕事にしている職人を言うんですね。

 もっと広く、建築現場で働く人すべてをいうこともある。現代は高いところまで足場を組むから、足場の上で仕事をする人はすべてとび職なんだよ。
由香
 大屋さんは現在何代目ですか。

 現在は2代目の方が、高齢にもかかわらず、まだがんばっているが、3代目が40代の半ばになっているんで、まだまだ続けてほしい地元のとびさんなんですよ。
 ところで、由香ちゃんは左官をなんて読む。
由香
 左官はサカンでしょう。違うんですか。

 実はプロの職人さんは、シャカンと発音しているんだ。
由香
 ではこれからは、シャカンヤサンということにします。
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2006年11月29日

わいがや通り15


 三橋米店の南側には右へ入って行く小道がある。この道の先は行き止まりだが、そこにとび職の屋号、大屋(だいや)の吉野工務店がある。代屋と書いた書物もあるが、大屋が正しいらしい。
由香
 確かに、右に入る道には、型枠に使うような鉄板や材料がたくさん置いてありますね。吉野工務店も古いんですか。

 大正13年に吉野信家に秩父宮殿下が宿泊されることになったことは、吉野園茶舗のところで話したよね。
由香
 わいがや通りの吉野園ですね。東漸寺の向い側にありますね。
 このあと、吉野信氏は津田沼町長になるんですよね。

 宮様がお泊まりになることになったので、急きょいろいろ工事をした。そのときに、とび職の弥平(通称だいや)に頼んだと書かれている。この弥平さんが初代の大屋なんだ。この吉野工務店の初代なんだよ。
由香
 大正13年にはこのあたりで、仕事をしていたんですね。80年以上前ですよ。
 とび職というのは、どこを飛ぶんですか。

 高い足場の上を飛び回るから、とび職だよ。
由香
 高い足場の上でやることといったら、壁塗りでしょう。左官の仕事じゃあないんですか。

 そのとおり。だから、江戸時代は、足場を組む仕事は左官や石工がやっていた。それが明治時代から、大正になって、左官から分離されてきた。左官は塗るだけで、足場を組んだり、基礎のコンクリートを打つ仕事をするのがとび職になってきた。
由香
 コンクリートなんて江戸時代にはなかったんですから、コンクリートが庶民にも使われ、建物の布基礎やベタ基礎に使われるようになって、左官からとび職が分離独立してきたんでしょうね。

 だから、大正13年頃はとび職が左官から独立してきた頃なんで、弥平さんはこの地域で最初のとび職ということになるだろうね。
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2006年11月28日

わいがや通り14


 この目の神様のある、理髪店の道路の反対側にも、カットハウスと書かれた美容院があるね。その隣が、三橋米店だ。ここも、松井天山の絵図に出ている、古くからの米店だ。
由香
 お店の後ろに、古めかしい建物がありますね。瓦にこけが生えていますよ。

 よく気がついたね。三橋米店の母屋だね。建物が古いかどうかの判断基準は、まず平屋であることだ。このあたりでは、2階建ては大正時代以降でないと出てこない。
由香
 そうすると、この建物は明治時代の建築ですか。

 たぶん明治だと思うよ。
由香
 夏休みに、お聞きしたように、明治時代の瓦なら、無地瓦じゃないんですか。この屋根の瓦は、丸みがついているんで、無地瓦じゃないですよね。

 大工さんの話では、この建物は、もともとは茅葺きだったものを、戦後に瓦に取替えたと言っていた。だから、明治時代の瓦ではないんだよ。
由香
 江戸時代の建築の可能性はありませんか。

 柱は太いものが使われているというから、江戸時代ではないと思うよ。江戸時代は、大黒柱だけが太いんで、すべての柱が太くなるのは明治の後半以降だからね。
由香
 誰が建築したかわかっているんですか。

 この地域で7代続いた都築工務店だよ。いまではなくなってしまったが。
由香
 そうすると、習志野市には、関東以北で最古といわれる江戸前期、1664年築の旧大沢家が、藤崎森林公園に移築保存され、千葉県で2番目に古い江戸中期、1728年築の旧鴇田(ときた)家が、実籾本郷公園に、移築保存され、はたまた江戸末期、1810年前後といわれる、廣瀬家が国の登録文化財になっているんですから、この三橋米店主屋も、保存すれば、各時代の民家建築が保存されてすばらしいじゃないですか。

 そのとおり。わしも、この家を保存してほしいと思っておる。袖ヶ浦団地の近隣公園あたりへ移築して、公民館とか茶室とか、集会所として使って、明治建築を保存してほしいもんじゃよ。
由香
 建物は、一度壊してしまえば、2度と同じものは建てられないんですから、ぜひとも保存してほしいですね。ここは県道に面しているから、そのうち、高層化の話が出るでしょうから。今から保存運動をしてほしいですね。昔の建物は移築できるんですから。

 わいがや通りが県道であることをよく知っているな。大正時代までは、船が流通の中心手段じゃった。この道が、現在国道14号になっている久々田海岸と、内陸の純農村部とを結ぶ大動脈だったんだ。わいがや通りのアーケードはすぐそこでなくなってしまっているが、実はここから先が、大正時代までの中心街だった。京成電鉄が大正時代にできるまでは、京成津田沼駅前は閑散としておったんじゃよ。
由香
 今でも、京成津田沼駅の北側へ出ると、南側とは違って静かな住宅街の雰囲気ですからね。

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2006年11月27日

わいがや通り13


 当時の人は、伝染病を運ぶつもりで運んだんじゃあないよ。前に話したろう、このあたりは、西暦1800年頃から、1940年頃まで甘藷、つまりサツマイモの特産地だったんだ。砂地の多い津田沼は、水田より芋に適した土地だったんだ。
由香
 思い出しました。特産の甘藷を江戸、東京に運んだ帰り舟が、塵芥や人糞を持ち返って来たんですよね。

 糞尿は肥料としてすぐに内陸部の農家へ運ばれたが、塵芥はゴミ河岸と呼ばれた、海岸沿いの一定の場所に集められ保管されていた。ゴミの中には当時貴重な金属類も含まれ、お宝捜しが当時の人のアルバイトになっていた。ゴミといっても、当時はほとんど植物性のゴミだから、最終的には腐葉土のような肥料になる。これがまた、稲よりも芋に適した肥料になったんだ。いまでも、畑の中から、土を固めて作った、江戸時代の子供の遊び道具である泥メンコが出てくるのは、そういう事情によるんだよ。
由香
 そういう江戸、東京のゴミや糞尿が伝染病を運んできたんですね。

 衛生という観念が乏しかった時代に、得体の知れない病原菌がゴミや糞尿の中から次々と出てきたようで、当時はたくさんの人が亡くなったらしいよ。東漸寺の古い墓石を見ていると、江戸時代の終わりから明治時代にかけて、幼児から青年まで、普通は死亡するような年齢ではない人の墓石や亡くなった記録がたくさん見られるのも、そういう事情があったからなんだろうね。
由香
 救荒作物である甘藷の特産地として、天明や天保の大飢饉にも影響を受けず、打ちこわしなどの農民一揆もほとんどなく、平和な半農半漁の地だと思っていましたが、その特産品が、病原菌を持ち込む原因になっていたんですね。開国のマイナス面がこの辺にまで及んできていたんですね。

 話がだんだんそれていってしまったが、眼科医のいない時代、この目の神様が当時の人たちの唯一の頼りだったんだね。
由香
 そういう時代から1世紀近くたって、すぐそこの五差路のところに名医と言われる眼科医院ができたのも、何かの因縁ですね。

 この目の神様が、名医を引っ張ってきてくれたと思っていいんじゃないかな。
由香
 だんだんすみに追いやられているお堂ですが、ちゃんとお社をこしらえないとバチが当たるかもしれませんね。
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2006年11月26日

わいがや通り12


 女神じゃないんだ、目の神様なんだ。
 床屋さんの白い建物を通りすぎると、次の建物とのすきまに1台だけの駐車場がある。その右すみに小さな石のお堂があるだろう。
由香
 なんだか車が置いてあって、見ずらいんですが、たしかに車の右後ろに小さなお堂がありますね。

 何度も話している、1901年(明治34)に生まれ1996年に亡くなられた瀬山とみさんの「久々田風土記」という本には、このお堂が眼病を治す神様だと書かれている。
由香
 目医者さんへ行けばいいじゃないですか。ちょうどこの小道を左へ入って行くと、五差路のところに三橋眼科があるじゃないですか。名医として有名で、いつ行っても患者さんが、建物からあふれるくらいにいますよ。

 明治や大正時代に、この辺に眼科医がいるわけないだろう。津田沼町郷土教育資料によると、当時の子供達の多くがトラホームを患っていたと書かれている。だから子供達はこの目の神様に、目の病気を治してもらうようお参りしたそうだよ。
由香
 神頼みなんて効果ないでしょうに。トラホーム、あるいはトラコーマは微生物による伝染病でしょう。元を断たないと治りませんよ。

 昔は、一般庶民に薬など手に入らなかった。薬の代わりに、お願いするだけで治るという薬師如来信仰が生まれたくらいじゃ。
由香
 病原菌を断たないと治りませんよ。

 日本には、江戸時代の鎖国時代は外国から伝染病は入ってこなかった。それが、幕末に開国を迫られ、外国人が来るようになると、コレラや、ペスト、天然痘など次々と伝染病が輸入されてしまった。
由香
 でも、開港したのはこのあたりでは横浜港ですから、かなり離れていますよ。

 横浜に上陸した外国人は江戸、東京へ行く。そして、そこからここへ伝染病が運ばれてきたんだよ。
由香
 どうして、伝染病を、わざわざ江戸、東京からこの地へ運んでこなければいけないんですか。
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2006年11月24日

わいがや通り11

由香
 さあ再び戻った、通園通学信号のところを向こう側へ渡って、九十八銀行があったという左へ入る道があるところへきましたよ。

 左へ入る道のある角に、床屋さんがあるね。
由香
 モルタルにペンキ塗りの白壁に、大きな足跡のような模様がたくさんついていて、おもしろいですね。

 ここでは、三橋権四郎家とめがみの話をしなければならんな。
由香
 三橋権四郎家というのは、東漸寺でお話を聞いた、皇族のための車寄せがあった家のことですね。

 左に入る道を見てごらん。そこには、たくさんの建築したばかりの家が建っているだろう。まるで、ハウジングセンターみたいだろう。ここが数年前まで、敷地600坪の、三橋権四郎家があったところだ。風雅な門があり、その左に白壁の蔵が見えていた。昔風の雰囲気を残した家だったよ。蔵を取り壊したとき、その瓦はインターネットで販売されたと聞いている。
由香
 どうして瓦が売れるんですか。

 100年以上前の瓦は、今では入手困難じゃ。品質も形も今の瓦とは違っている。料亭で、100年以上前の瓦の上に料理をおいて、いただくと、不思議な気持ちになると思わんか。日本人は、わび、さびの心情を理解できなければならん。料理は器にこだわってこそ味わいが出る。
由香
 たしかに、江戸時代か、明治時代の100年以上前の瓦の上に料理が乗っかってきたら、そして、それなりの話を聞けば、感慨深げに見ながら食べるでしょうね。懐石料理って、ほんのちょっとずつしか乗っかっていませんからね。

 その年で、懐石料理を食べたことがあるのか。すごいな。
 瓦とともに、昔の建物は、外壁に板がはってあった。下見板(したみいた)という。こうした板も、100年くらい経っていると、取引の対象になると聞いたことがある。風雨にさらされ、紙のように薄くなっている風情がいいんじゃろうか、よくわからんが。
由香
 古いものは、何でもとっておいた方が良いですね。いつ何時、価値が生まれるか知れませんからね。

 わしが子供の頃読んだマンガは、高値がついておるよ。別冊付録を残しておけば良かったと、つくづく思うね。
由香
 女神の話って何ですか。
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2006年11月23日

わいがや通り10

由香
 どんな伝説ですか。

 姉ヶ崎に着いた姉達に、弟の師経卿が、久々田に着いたことを知らせるために、鷺沼源太光則という人が、久々田海岸の高台でのろしをあげて連絡したといわれている。その場所はカンノダイと呼ばれ、神の台、火の台という漢字が当てられている。
由香
 七年祭で神輿が立ち寄るところですね。

 聞いたことがあるだろう。その付近をいずれ通るから、そのときに話そう。
由香
 のろしで連絡したということは、習志野市域最古の光通信伝説というわけですね。それにしても伝説上の人を、二宮神社、菊田神社、時平神社、高津比咲神社は祭神にしているなんて、おもしろいですね。史実とは違うんでしょう。

 歴史上の定説では、藤原師経卿が東国へ流されたことにはなっていないよ。しかし、今から800年以上も前のことだから、真相は不明だ。4つの神社以外にも、船橋から千葉まで、たくさんの神社に関係する藤原師経・時平伝説が、この地域にはあるんだから、本当に来ていたかも知れないよ。
由香
 まあ、伝説ですから、いいんじゃないですか。歴史ロマンですよ。それより、そういう伝説があるということを、看板に書いて、立てておけば楽しいじゃないですか。菊田公民館の前の丸田にも、14号京成津田沼駅入口のあたりにも、カンノダイにも。散策する人が、歴史ロマンを感じながら歩けるじゃないですか。

 その気になれば、市内中に書くことがある。実現すれば、歩くことが楽しい町になるだろうね。
由香
 それじゃ、丸田からさっきの通園通学信号に戻りましょうか。ほんの30メートル程度の寄り道でしたから。平安時代の話から、現代に戻りましょう。
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2006年11月22日

わいがや通り9


 藤原師経卿一行は、久々田大明神、今の菊田神社にしばらくいた後、このあたり23村の総鎮守である下総の国二ノ宮といわれる、船橋三山の二宮神社に逗留した。
由香
 七年祭の中心になる神社ですね。京都のお公家様一行が逗留したんじゃ、たいへんだったでしょうね。

 一族は、その後二宮神社に定住し、神官になり、自分達の6代ほど前の先祖である藤原時平公を神様にして、二宮神社に合祀したと伝わっている。
由香
 藤原時平公って、どんな人だったんですか。

 あの有名な菅原道真が右大臣の時の左大臣で、菅原道真を大宰府に左遷させた張本人だといわれている。
由香
 それじゃ、大変な悪役じゃあないですか。菅原道真が左遷され、2年後に亡くなった後、都では悪いことがいっぱい起こり、道真のたたりだといわれたんでしょう。だから、張本人の時平公は、責任を問われて、都を追われたんでしょう。そんな人を合祀したんですか。

 まるで、靖国神社の合祀問題みたいだね。
 いまでも天神信仰の人は、二宮神社にはお参りしないといわれている。
由香
 そうでしょうね。
 まさか、菊田神社は合祀していないでしょうね。

 菊田神社も合祀している。
 もっというと、時平公はお隣の八千代市の時平神社の祭神で、その娘は同市にある高津比咲(たかつひめ)神社で神様として祭られている。
由香
 受験生はお参りしない方が良いかもしれませんね。道真公を描いた絵が、すべて怒りの表情になっているのは、このときの左遷が原因だといわれているんでしょう。どうしてその張本人を合祀したんでしょうね。

 京都からここまで、そういう情報が入ってこない時代だったんじゃあないの。
由香
 八千代市に、伝説だけで時平神社や高津比咲神社があることが、不思議ですね。
 このあたりは藤原時平と藤原師経の伝説に染まっているんですね。

 まだある。藤原師経のお姉さん一行は、ここまで流されずに先に向こう岸に着いた。その地を姉ヶ崎と呼ぶようになった。姉が先に着いたという意味だね。
由香
 えーっ、市原市の姉ヶ崎って、そこから名前がついたんですか。伝説からついたんですか。

 伝説はまだあるよ。

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2006年11月21日

わいがや通り8

由香
 平安末期に、このあたりにどれくらいの人が住んでいたのかわかりませんが、京都のお公家さん一行の船が着いたんだから、驚いたことでしょうね。

 伝説によると、一行は船を海岸から引き上げ、丸田に置いておき、菊田神社に身を寄せたという。
由香
 やっと、丸田が出てきましたね。つまりこのあたりが、平安時代最末期の古代東海道の連絡船が、引き上げられた場所と書かれていたんですね。でも、丸田という地名は今では残っていませんね。

 久々田という、かっての津田沼町で一番有名な地名が、今では公園の名前としてしか残っていないように、丸田という地名も、この丸田集会所という、ペンキで書かれた字にしか残っていない。まさに風前のともし火というやつだね。
由香
 この字が消えてしまえば、伝説に登場する地名もどこだかわからなくなってしまいますね。

 だから、寄り道して話しておきたかったんだよ。それだけだ。
由香
 それで、そのことが書かれた棟札は今でもあるんですか。

 菊田神社にはないよ。舟橋大神宮に預けられていると聞いたことがある。
由香
 習志野市の貴重な文化遺産ですから、郷土資料館で保管してほしいところですね。残念ながら郷土資料館はありませんが。

 それじゃ、さっきの信号のところへ戻ろうか。
由香
 ちょっと待ってくださいよ。藤原師経卿一族はその後、どうなったんですか。聞かせてくださいよ。ここで終わったんじゃあ、気持ち良くないですよ。
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2006年11月20日

わいがや通り7

由香
 丸田というのは、丸い田んぼがあったから丸田というんですか。

 そういう風に言われているね。
由香
 丸い田んぼがどうかしたんですか。

 菊田神社の棟札に、江戸時代の初期のものがあり、そこに藤原師経卿のことが書かれていた。
由香
 どうして、丸田から藤原師経(ふじわらのもろつね)の話へ飛ぶんですか。

 まあ、いいから聞いていなさい。棟札には、1181年に藤原師経卿が左遷されて、一族が京からこの地に来たことが書かれている。海が荒れて、久々田に漂着したらしい。千葉の寒川神社では1180年と書かれているらしい。
由香
 本来は、古代東海道である横須賀から館山の方へ船で向っていたら、強風にあおられて、東京湾の一番奥の津田沼に漂着したということですね。

 そんなところだ。
由香
 1180年といえば、源頼朝が鷺沼に集結した年じゃありませんか。平安時代の末期の話が、菊田神社の江戸初期の棟札に書かれているんですか。ざっと、400年前のことですよ。

 だから伝説だといっているだろう。しかし、この話は、習志野市内だけでなく、八千代市や、船橋市、千葉市の多くの神社にも、書き残されていて、この地方では有名な伝説なんだ。
由香
 全く知りません。習志野カルタにも出てきませんよ。

 昔はこの地方で誰もが知っていた伝説が、今では学校でも教えないし、語り継がれることもなくなったんで、消滅寸前だね。子供はテレビやゲームにいそがしくて、昔話どころじゃあないだろう。昔は、いろりを囲んで、爺さんから話を聞いて、孫子に語り継がれていったんじゃがなあ。
由香
 爺さんはそういう話が好きな人だから、ちょうどいいですね。それで、藤原師経卿一族が漂着したのはどこですか。

 わいがや通りが国道14号にぶつかったあたり、京成津田沼駅入口の看板のある信号のあたりだと伝承されている。
由香
 すぐそこじゃあないですか。
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2006年11月19日

わいがや通り6

由香
 こんどは、この通学通園信号からどっちへ行くんですか。

 そうじゃな。さっき言いかけた、信号を渡った細道を西へ上って、菊田公民館の方へ、寄り道しようかな。
由香
 菊田公民館の前にきましたよ。

 後ろを向いてくれ。
由香
 後ろは、東漸寺の墓地があるほうですね。

 プレハブのような建物があるじゃろう。
由香
 「丸田集会場」と書いてありますよ。

 丸田の話をしようかな。
posted by 絢 at 13:28| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月18日

わいがや通り5

由香
 爺さん。わいがや通りのお店の方からコメントが入っていますよ。オリオンビルのことは、ご存知ですか。わたしは、東漸寺が経営している建物かと思っていましたよ。

 申し訳ないが、松井天山の絵図に出ている古いお店の話しか知らんのじゃ。戦後のお店は、移り変わりが早いので、ついて行けんのじゃ。
 タンポポカフェの方か。ヨーロッパへ行くと、町のなかにひょこっとあんなタイプの茶店がある。タンポポカフェも、夜のわいがや通りにいい雰囲気を出しておる。ああいうお店が3つくらい定着するようになると、わいがや通りも明るい雰囲気になるんじゃが。
由香
 それじゃ。オリオンビルについて、ご存知の方がおられましたらコメントをください。

 それで、話がどこまでいっていたっけね。この信号のところにある、細い道を登っていくと、菊田公民館があるという話だったね。
由香
 違いますよ。信号の先の角に、かって九十八銀行の支店があったという話ですよ。

 おおそうじゃった。九十八銀行は今の千葉銀行じゃ。現在は、京成津田沼駅前に支店は移ってしまったが、かってはここにあった。
由香
 ということは、このあたりが、昔の津田沼の中心だったということですね。

 商店街は、駅から国道14号の方へ伸びているが、海岸が栄えていた時代は、14号と、その1本北側の道が商店街だった。
由香
 1本北側の道なんてあるんですか。お店なんか一つもありませんよ。

 だから時代は変わるんだ。今は1軒もお店のない道が、実は200年前の中心街だったんだ。その話は、その場所へ行ったら話そう。
由香
 第一銀行と第百銀行はどうなりました。

 第一銀行は、現在のみずほ銀行、第百銀行は現在の東京三菱銀行になっているよ。
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2006年11月17日

わいがや通り4


 みはし湯をすぎて、少し行くと信号がある。
由香
 ここは津田沼小学校、幼稚園、保育園の人たちが利用する信号なので、登校、通園時間になると、利用者の多い信号ですね。

 だから、押せばすぐに青になる、気持ちのいい信号でもある。西側に八百屋の有賀青果店がある。ここも、80年前の松井天山の絵図に出ている店だよ。
由香
 ここの屋号は棒屋といって、昔は荷車を作っていたんですよね。今は青果店ですが、松本ストアが店を閉めた中にあって、がんばっていますね。

 この信号の先、左に入る道がある角に、松井天山の絵図では、九十八銀行支店と書かれている。ここで問題です。九十八銀行は今のなに銀行でしょうか。
由香
 知りません。

 考えてごらん。ついでに、切りのいい数字で、第一銀行と第百銀行は、今のなに銀行だと思うかい。
posted by 絢 at 06:08| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月16日

わいがや通り3


 松井天山の絵図は、千葉県内の昭和初期のほとんどの市町村を、詳しく描き残している。このような絵図は他の県にはないから、たいへん貴重な歴史資料なんだ。
由香
 思い出しました。この絵図は、料金をとって、絵図の裏に広告を入れる、宣伝用のチラシのようなものなんですよね。

 だから、広告費をたくさん払ってくれたところは、裏の広告も大きい場所を占めている。少ないところは、表も裏も、表現が簡略化されている。
由香
 銭湯は、道案内の絵図として、記入せざるをえない目標になる建物だから入れてありますが、広告料が払われていないと、「ユヤ」という表記のしかたになってしまうんでしょうね。
 払うも、払わないも自由ですけどね。

 真相はわからないが、鷺沼温泉も80年前から存在したことは、たぶん間違いないだろう。
由香
 初めて鷺沼温泉に入ったときはびっくりしました。昭和初期のままの銭湯じゃないんですか。

 習志野市民で鷺沼温泉に入ったことのない人は、ぜひ入ってほしいね。駐車場もあるよ。休日にでもどうでしょう。
由香
 100年前に時間が戻ってしまったんじゃあないかと思ってしまいますよね。今の時代に、まるで江戸時代のような銭湯が残っていることに、驚愕しますね。

 自分が長屋住まいの、八っさん熊さんになったような気がするね。
由香
 経営者が高齢化して、閉店する話が出たときに、近隣住民が保存運動を始めたんで、今も残っていると聞いていますよ。

 お風呂がなくなると困るから反対したんではなく、世にも珍しい雰囲気をもった銭湯だから保存運動が起こったんだよね。市役所の人は全員、一度は鷺沼温泉に行くべきだと思うよ。そうすれば、観光地図や広報に掲載したくなるだろう。市の重要な文化財といっていいと思うよ。市が買いとって、市営にすればいいと思うぐらいだよ。
由香
 何とかあのまま保存したいですね。現役の銭湯として。

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2006年11月15日

わいがや通り2


 それではここで問題です。昭和3年に描かれた松井天山の絵図には、みはし湯は何と書かれていたでしょう。
由香
 たしか、ぼたん美容院は「女髪結牡丹」と書かれていたんですよね。銭湯は昔は何といったのかしら。
 私は、「みはし温泉」にします。正解は何ですか。

 絵図には、「美葉志湯」と書かれていた。
由香
 それじゃ今と同じじゃないですか。経営しているのは、たしか三橋さんですよね。

 この辺では三橋は、「みつはし」と読んで、「みはし」とは読まない。しかし、銭湯の名前は「みはし湯」になっているんだね。絵図では当て字になっているのか、当時本当に美葉志と書かれていたのかは、わしゃ知らんよ。
由香
 現在のみはし湯は、入口に名前を書いていませんね。
 ほかの銭湯は、絵図では何と書かれていますか。

 絵図を見ると、国道14号沿いの、例の瀬山家の手前に銭湯があったようで、「長左衛門湯」と書かれている。
由香
 鷺沼温泉は何と書かれていますか。そもそも、80年前に鷺沼温泉はあったのかしら。

 現在の鷺沼温泉に該当する場所に、絵図には、ただ単にカタカナで「ユヤ」と書かれているだけだよ。
由香
 ユヤは湯屋だから、銭湯があったんでしょうね。

 絵図では、三ヶ所とも建物の裏手に煙突が立っていて、煙を吐いている絵が描かれているから、銭湯に間違いないよ。
由香
 どうして、同じ銭湯なのに、表現が違うんですか。

 それは前に説明しただろう。思い出してくれよ。
posted by 絢 at 05:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月14日

わいがや通り


 さあ、それじゃあ、東漸寺を出ようか。墓地から山門へ戻って、わいがや通りへ出て、南へ行こう。
由香
 ここの商店街も、店を閉めるところが多くなってきましたね。古くから親しまれた松本ストアも今年閉店しましたね。このあたりで唯一の銭湯、みはし湯の隣の模型店も閉店しましたね。

 全国的に商店街はシャッター通りになりつつあるが、しかし最近新たに開店する店も増えているよ。
由香
 どんな店ですか。

 わいがや通りは国道14号、千葉街道の方向に伸びているが、美容院が増えている。
由香
 男性も利用できるタイプの美容院が最近増えましたね。京成津田沼駅近辺では、ここ何年かの間に、美容院の数は3倍くらいになったんではないでしょうか。

 これでは過当競争になってしまうと思うんだが、大丈夫なんだろうか。
由香
 銭湯も全国的に減少していると聞いていますが、みはし湯はがんばっていますね。

 松井天山の絵図にも描かれている。
由香
 えーっ。それじゃあ、みはし湯もここで80年間も銭湯をやっているんですか。
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2006年11月13日

津田沼の東漸寺45


 源頼朝は、鷺沼のあたりを将兵の集合地にした。更級日記は、それより200年古い。しかし200年くらいでそんなに海岸線が変化するとも思えない。
由香
 だから、古代東海道も、鷺沼の慈眼寺や古墳を通過するあたりの道だと言いたいんですね。

 源頼朝の将兵が集合した、鷺沼の屋号陣屋の鈴木家の前から、慈眼寺を通り、鷺沼こども園の南側に道がある。
由香
 そこからは、こども園に沿って右手に上って行き、新たにできた白ひげ橋を通過すると、鷺沼古墳に至りますね。

 そのルートは、古代東海道の可能性が最も高いじゃろう。
由香
 こども園の南側から坂を登る部分は道幅が狭くって、木がおおいかぶさっていて、今でも古道の雰囲気が残っていますね。

 八剣(やつるぎ)神社から、鷺沼古墳までの旧道には、今も古道の雰囲気をただよわせた部分が、わずかに残っている。
由香
 八剣神社は、鷺沼のアクロポリスで、慈眼寺はネクロポリスなんですから、両者を結ぶルートが古道であることは、ギリシャの話からも、想像できますね。

 車が入れない、狭い狭い道が今も残っている。この部分はこのまま、ぜひ将来に残してほしいね。
由香
 ついでに、古東海道や頼朝伝説の説明板をあっちこっちに立てればいいと思いますよ。散策都市にふさわしい場所ですからね。
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2006年11月12日

津田沼の東漸寺44

由香
 「男もすなる日記というものを、女もしてみんとてするなり」というのですか。

 それは紀貫之の土佐日記じゃろう。土佐の高知から都までの紀行文じゃ。さらに70年くらい古いよ。
 こっちは上総から都へ行ったんじゃよ。
由香
 「つれずれなるままに、日暮らし、硯にむかいて」

 それは吉田兼好の徒然草じゃろう。更級日記の出だしはそんなに有名ではないよ。
由香
 更級日記の著者は、紫式部や清少納言と同時代の人でしょう。

 菅原道真の六代くらい後の血筋で、文学一家に育ったと言われている。
由香
 残念ながら名前は伝わらなかったようですね。しかし、そういう人がこのあたりを通過したんですからロマンがありますね。その道を探してみたいものですね。
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2006年11月11日

津田沼の東漸寺43

由香
 奈良平安の時代に、習志野市内に古代東海道があったなんてすてきな話ですね。どのあたりにあったんでしょうか。

 それがわからない。今とは海岸線が違っていたと思われるからね。
由香
 誰かが通ったという記録はありませんか。

 菅原孝標(すがわらのたかすえ)の女(むすめ)が通ったことがわかっている。
由香
 菅原孝標って、誰ですか。

 この人は西暦千年頃の、平安時代の公務員なんだ。京都から上総、今の市原市のほうへ転勤で来ていた。そして、西暦1020年9月に都へ帰ることになった。
由香
 そのときに古代東海道を通ったんですね。でもおかしいですね。京都へ帰るんなら市原から館山へ南下し、船で横須賀方面へ行くのが、帰り道なんじゃないですか。

 市原から館山まで歩く距離を考えれば、陸路でもあまり変わらないと考えたんじゃろう。
由香
 引越しトラックみたいに、荷物を載せた牛や馬を引いていたんで、船に乗せるのがたいへんだったんじゃないんでしょうか。船は天候によっては、危険な乗り物ですからね。

 理由はともかく、菅原孝標一行が今から986年前にこのあたりを通過したんだよ。鷺沼の源頼朝伝説より、さらに200年もさかのぼるんだよ。
由香
 ロマンいっぱいですね。
 その菅原孝標の娘さんの名前は何というんですか。何をした人ですか。

 有名な「更級日記」の著者じゃよ。
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2006年11月10日

津田沼の東漸寺42

由香
 昔は先があったんですか。海の中に道があったんですか。

 東海道だよ
由香
 東海道は、お江戸日本橋から横浜方面へ行き、湘南地方を名古屋方面へ行く昔の街道でしょう。

 江戸時代は、今の東京に当たる地域が栄えたから、そうなっただけで、元もとの古代東海道は、横須賀付近の海岸から船に乗って、房総半島の、今の館山市へ渡るのが、本海道だった。
由香
 横須賀から房総半島へ渡って、海沿いに今の茨城県方面へ抜ける道があったんですか。

 館山から、内湾をずっと通って、市川市へ行き、そこから、佐倉、成田と通過し、柏、我孫子へ行くのが古代の東海道といわれている。
由香
 だから、地図では下にある房総半島の南部が上総(かずさ)と言われ、上にある方が下総(しもうさ)なんですね。

 都、つまり京都に近い方に上という漢字を当てたんだね。古代は、館山の方が市川より京都に近かったんだね。
由香
 そうすると、古代の東海道には、習志野市の海岸沿いも含まれていたんですね。

 古代の東海道には、約16キロごとに駅家が置かれていた。浮嶋という駅家がこの辺りにあったそうで、幕張辺りが浮嶋であるという説が有力だが、地形的に鷺沼の方が浮いている島に見えたんではないかという説もある。
由香
 いずれにせよ、現在の市域のどこかに古代東海道があったんですから、ロマンがありますね。習志野カルタに古代東海道の読み札を入れてほしかったですね。

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2006年11月08日

津田沼の東漸寺41


 昔は鹿島神宮も、香取神宮も式年遷宮が行われていたらしいが、戦国時代頃に行われなくなったらしい。鹿島神宮の本殿は、徳川二代将軍が西暦1619年に奉納したもので、香取神宮の本殿は、徳川幕府が、1700年に造営したものなんだよ。
由香
 建替えのしきたりがなくなったおかげで、どちらも重要文化財になっているというわけですね。

 両神宮には、重要文化財の建物がたくさんある上に、広大な鎮守の森がひろがっている。
由香
 そうすると、この二つの神宮を中心にして、そのほかの寺社とその周辺林が世界文化遺産候補というわけですね。

 そのとおり。香取神宮の建物はたいへんに美しいうえに、周囲にある杉の大木は迫力十分じゃよ。
由香
 鹿島神宮は、重文の建物がたくさんあるうえに、周囲の森がたいへんに美しいですね。ほかにはどの寺社と周辺林がありますか。

 南の方からざっと列記すると、石堂寺、清澄寺、誕生寺、神野寺、笠森観音、波切不動尊、新勝寺、中山法華経寺、芝山仁王尊、飯高寺などがある。これだけでも重要文化財の建物が20棟程度あるし、このエリアの他の建物や、鹿島、香取神宮を加えると、30棟前後の重文の建物があることになる。
由香
 世界遺産に立候補するとなると、現在県指定のものを、国指定に格上げするでしょうから、たいへんな数の重文建造物を含む候補地になりますね。

 二つの別格の神宮とその鎮守の森、さらにたくさんの重文級建物と周辺林を持つ寺を含めれば、十分に世界文化遺産になると思うよ。
由香
 県は、観光立県の究極の政策である世界遺産立候補をぜひ考えてほしいものですね。ところで、周囲が海で、先がない房総に、どうして重文級の建物がある寺がたくさんあるんですか。

 昔は先があったんだよ。
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2006年11月07日

津田沼の東漸寺40

由香
 明治神宮ですか。

 明治神宮は東京だろう。明治神宮は、明治天皇を神様にお祭りしているところだから、大正時代にできている。そんなに古い建物じゃないから、重文級の建物はないよ。
由香
 重要な神宮とは、どこの神宮ですか。

 江戸時代までは、神宮といえば伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮のことを言ったんだよ。毎年1月1日早朝に、天皇陛下が御拝なされる方向は、伊勢と鹿島・香取の二方向だけなんだよ。神宮中の神宮の、三つのうち二つが、房総地域にあるということは、他の地域とは明確に区別できる重要なポイントだよ。
由香
 伊勢神宮は重要文化財ですか。

 誰でも知っているように、伊勢神宮は20年毎に建てかえられている。建物の形式自体は、弥生時代の米倉を思わせる、原始的な建物だが、部材、つまり材木が20年毎に全部取り替えられているので、重要文化財には指定できないんだよ。
由香
 材木は、どの程度残っていれば、文化財になるんですか。

 正確な定めはないよ。創建当初の材木が1本でも残っていれば、文化財になるという極端な説もあるくらいだからね。
 日本の建物は、材木を取替えながら、保存されている。当初、ユネスコは、部材が取替えられていく建物を世界遺産にすべきかどうか、議論があったと聞いている。
由香
 そんなことを言ったら、日本の建物は、ほとんど世界遺産になりませんよ。石や、セメント、コンクリートで作られていて、地震もほとんどない西欧の建物と、同じ基準で考えてはいけませんよ。

 もし、ヨーロッパが地震多発地帯だったら、ほとんど崩壊してしまったじゃろうからな。
由香
 鹿島神宮と香取神宮は、20年ごとの式年遷宮を行っていないんですか。

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2006年11月06日

津田沼の東漸寺39


 世界を見ると、ピンポイント的な世界遺産もあるが、広い面積で多様な文化財をまとめて候補にする方が得策じゃ。
由香
 首都圏では、鎌倉が広い面積じゃあないですか。

 鎌倉は、歴史も古く、文化財もあるが、その数という点で少ないと思っている。国宝の円覚寺舎利殿も関東大震災で倒壊し、その後再建されたように、地震多発地帯にあって、重文級の建物があまり残っていないんじゃ。
由香
 今、鎌倉では、いろいろな建物を重文指定しようとしているようですね。

 基本的に残存数が少ないから、これから重文を増やすのはたいへんじゃろう。宅地開発も進んでいるから、鎌倉時代の遺跡を発掘することも困難じゃろう。
 その点、わしの言う房総地域には、多くの重文建築物と、その周囲の自然林が豊かに保存されている。
由香
 房総は、その先が海なんで、あまり開発されてこなかったんでしょうね。そのおかげで文化遺産の候補にできるというわけですか。

 世界文化遺産では、キリスト教の宗教施設の数が多いといわれている。
由香
 ヨーロッパの人が作った世界遺産の制度だから、キリスト教系が多くなるのは当然でしょう。

 ユネスコでは、世界の多様な宗教施設を、文化遺産として残したいと思っている。キリスト教に偏りたくないじゃろうな。
由香
 房総には、天台宗、日蓮宗、浄土宗、真言宗、神社神道など多様な宗教、宗派が混在し、それぞれの寺社の建物が多数残っていますね。

 重文の建物の数という点でも、十分にたくさんある。
由香
 でも、重文級の寺社は全国にたくさんあるでしょうに。房総地域が、他の地域と違う重要ポイントは何でしょうか。

 神宮じゃろう。
posted by 絢 at 06:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月05日

津田沼の東漸寺38


 最近、知床半島と熊野古道が世界遺産になったな。
由香
 その他にも、自薦候補地がたくさんありますよ。

 どんなところが、立候補している。
由香
 石見銀山、鎌倉、長崎軍艦島、富士山、長者が原廃寺跡、犬山城、小笠原諸島、出羽三山、大雪山、釧路湿原、平泉、尾瀬、佐渡金山、金沢城、彦根城、琵琶湖、鳴門海峡、阿蘇山、吉野ケ里遺跡、宮古島、与那国島、まだほかにもありますよ。

 由香ちゃんは、この中で、世界遺産にしたいものがあるかい。
由香
 そうですねー。小笠原諸島は世界自然遺産になってもおかしくないと思いますが、その他のものは、ピンときませんね。だいいち、見たことがありませんから。
 京都や奈良は、その地域全体の寺社をひっくるめて世界遺産にしていると思いますが、今立候補しているのは、面ではなく点で立候補しているみたいですね。

 首都圏では、鎌倉以外、自薦もないな。そこで、千葉県が立ちあがるのじゃ。
由香
 千葉県のどこが、世界遺産候補なんですか。

 房総の寺社とその周囲の自然林が候補地じゃ。
由香
 具体的に言ってください。

posted by 絢 at 09:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月04日

津田沼の東漸寺37

由香
 爺さんは、千葉県の観光政策にも一言、言いたいんですか。

 わしは、なんにでも意見を言えるんじゃよ。
由香
 千葉県は観光立県を目指して、多くの意見を募集しています。そのときに応募しなかったんですか。

 忘れておったんじゃ。
由香
 今、県が言っている観光政策には入っていないことですか。

 入っていない。
由香
 じゃあ、どういうご意見ですか。

 千葉県を、世界遺産にする。
由香
 えーっ、これは驚きました。そんな意見は、今まで誰も言わなかったことでしょう。千葉県が世界遺産になるなんて、誰も考えていませんよ。

 だから、可能性がある。
posted by 絢 at 06:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月03日

津田沼の東漸寺36

由香
 「習志野かるた」のどこが残念なんですか。
 ははーん、わかりましたよ、読み札の公募に落選したんでしょう。

 わしは、鷺沼の頼朝伝説や久々田浜の藤原時平公伝説、戦争もの、などなど歴史ものをたくさん応募したが、残念じゃった。
由香
 全滅でしょう。そうだと思いますよ。

 うわさによるとわしの作品は、8首が最終選考にのこったと聞いておる。
由香
 それで全滅ならお気の毒ですね。頼朝伝説も、時平公伝説も残っていませんよ。伝説ものは落選するんですよ。歴史と関係ない読み札も、けっこう入選していますからね。

 本当言うと1首入選した。
由香
 えっ、どれですか。教えてくださいよ。爺さんの入選した読み札は、なんですか。

 それを言ったんじゃあ、面白くないじゃないか。四方鎌の答えと同じで、墓場まで持ってゆくよ。おっと、ここが墓場だったな。
由香
 遺言に書いておいてくださいよ。そうしたら、そのカルタを読むたびに、爺さんを思い出してあげますよ。

 そうじゃな、お迎えも近いことだしな。
 馬鹿を言うでない。
由香
 もうこの東漸寺で、一ヶ月以上も話をしていますよ。そろそろ次へ行きませんか。習志野市の観光政策まで立案したんですから、もういいでしょう。それともまだありますか。ついでに県の観光政策までしゃべってゆきますか。

 それもいいな。
由香
 冗談で言ったんですけど。

posted by 絢 at 06:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月02日

津田沼の東漸寺35


 市の広報が観光地図を出している。和英両方で、よく作られている。しかし、わしなら違う作り方をするね。
由香
 どんな観光地図をつくりますか。

 旧大沢家や旧鴇田家は重文級の古民家なのに、それが全く出ていない。解説つきで、大きく宣伝すべき施設なんだよ。戦争遺跡もほとんど解説されていない。
由香
 確かに、爺さんが今まで語っていたことは、ほとんど記載されていませんね。戦争遺跡や縄文土器の発見場所が図示され、解説があると楽しいかもしれませんね。

 それから、さっき話したミニ展示を市内の各所に配置する。その上で、観光地図にのせれば、散策にちょうどよい地図になるじゃろう。
由香
 戦争遺跡地図、土器発見現場地図、スポーツ有名選手関連地図、小公園案内地図、歴史案内地図、図書館・公民館・役所・出張所その他公的施設案内地図、災害時の避難場所の地図、などに分けて地図を作成し、一冊の小冊子にすると便利かもしれませんね。

 それはいいアイデアじゃな。
由香
 歴史ものといえば、「習志野かるた」も数年前に作製されましたね。今では、市が主催してのカルタ大会が開催されるようになりましたよ。新年恒例の行事になりつつありますね。

 カルタか、しかしあれは残念じゃった。
由香
 何が残念なんですか。
posted by 絢 at 06:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月01日

津田沼の東漸寺34


 元阪神の掛布さんといえば、阪神ファンには神様のような存在じゃ。
由香
 掛布さんの記念品を見ようと思う人が、関東にいるんでしょうか。

 たくさんいるよ。阪神ファンは関東にもたくさんいるよ。
由香
 でも、もうずっと前に活躍した人でしょう。

 シルバー世代の人ほど、掛布さんのファンが多いんだよ。なにしろ、巨人阪神戦で、ここで打ってくれたらありがたいというときに、必ず打った。それも、胸のすく快打で、アンチジャイアンツを狂喜乱舞させたんだからね。その記憶は、今のシルバー世代が生きている限り、なくならないよ。その掛布さんが、高校生のときにこの地で練習していたんだからね。掛布ファンにとっては、聖地のようなところだからね。
由香
 たしか、掛布さんはどの球団もドラフトの対象にしていなかったので、野球部監督だったお父さんが、知り合いに頼み込んで、阪神にドラフト下位でとってもらったという話ですね。その人が、ホームラン王、打点王を何回も取ったんだから、まさにサクセスストーリーですね。

 よく知っとるな。掛布さんのバットの振りの速さはすごかったよ。
由香 
 市内には、自衛隊の官舎や、ほかの国家公務員の官舎、いろいろな大企業の社宅が多いので、関西から転勤してくる人も多いですね。阪神ファンもたくさん居住しているかもしれませんね。

 大事なことは、多様なものをミニ展示することで、多様な人を引きつけることなんじゃ。バードウオッチングに興味のない人は、谷津干潟には行かんかもしれんが、軍事や戦争に興味のある人は、戦争遺跡を見学に来るかもしれんじゃろう。落語に関係する人は、小さん終焉の地に来るかもしれんじゃろう。縄文土器に興味のある人は、発掘地がどんなところか、見に来るかもしれんじゃろう。中日ファンが、谷沢選手の記念品を見に来るかもしれんじゃろう。サッカーファンが、玉田圭司ものを見に来るかもしれんじゃろう。背泳をやっている人は、鈴木大地ものを見に来るかもしれんじゃろう。
由香
 巨大な施設を作っても、誰もこなければ、夕張市になってしまいますね。公民館や、図書館、役所の一部に記念品を展示する程度や、説明板、記念碑でも、興味のある人はやってくるということですね。

 それが市域の商店活性化につながるんじゃよ。ミニ展示、記念碑、説明板のあるところを表示した、観光地図を作って、配布するんじゃよ。それとインターネットでも、見られるようにすればいい。
由香
 習志野市の広報課が発行している観光地図がありますね。

posted by 絢 at 06:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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