2006年12月29日

冬休み4

由香
 本日はお休みです。ホームページあるいは過去のブログをごゆっくりご鑑賞ください。
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2006年12月28日

冬休み3

由香
 平成16年3月30日に、七年祭が千葉県の無形民俗文化財に指定されました。この祭りは、船橋市、八千代市、習志野市、千葉市の九つの神社の神輿が、船橋の二宮神社に集合し、四市にまたがって練り歩くことから下総三山の七年祭と言われています。550年以上も続いている伝統あるお祭りです。
 最近では平成15年に行われました。次回は21年の11月になります。丑年と未年に行われます。それなら6年ごとなので、6年祭じゃないかと思いませんか。ところが、昔の行事の年数の数え方は、満ではなく数えなんです。最初の年も一つと数えるので七年になるそうです。
 爺さんの話では、七五三も、還暦や古希も、○回忌という法事も、むかしはすべて「かぞえ」で計算したそうです。しかし、最近は「数え」という計算方法が使われなくなったので、満で計算してもいいそうです。家の中から、仏壇や神棚が消えつつある時代ですから、「かぞえ」という言い方が消滅するのも近いかもしれません。いや、もう消滅しているのかもしれません。
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2006年12月27日

冬休み2

由香
 爺さんの休み中に、何か気のきいた話をしたいと思いますが、何も浮かんできません。毎年12月15日の広報では、約1500人の職員の給料の詳細が出ています。そこで、問題です。習志野市の職員の17年度の年収の平均はいくらでしょう。
 正解は704万円です。この数字がすぐに出てきた人は、立派です。市民の税金がどのように使われているかを、市民が監視すべきなんです。人件費が支出の3分の1以上を占めているんですから。
 もっと言いますと、16年度は719万円、15年度は735万円でした。少しずつ下がっているのは確かですから、努力しているといって言いと思いますが、平均704万円を皆さんはどう評価されますか。
 習志野市民以外の方は、自分の自治体職員の平均年収を知っている方はどのくらいおられるのでしょうか。
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2006年12月26日

冬休み1

由香
 爺さんは、年寄ですので夏休みも結構いただきましたが、そろそろ冬休みもいただきます。ところで、夏休みのたしか8月15日にお話した、身元不明の女性の件ですが、まだ不明のようです。
 検索窓で、「 習志野警察署 」と入れてください。習志野警察のホームページの、「 情報をお寄せください 」を見てください。そこに、殺人事件の被害者の似顔絵が出ています。
 平成12年に、市内で発生した殺人事件は、犯人が逮捕され、判決も出て、すでに服役していますが、被害者の身元が判明しません。犯行現場の空家は取り壊され、分譲地になり、3軒ほどの建物が建っていますが、仏様の行き場がない状況です。どうして身元が判明しないのでしょうか。
 ひょっとしたら、被害者は中国とか、東南アジア系の女性かもしれません。日本人なら捜索願が出ているでしょう。6年以上も連絡が取れないのに、親族は不自然に思わないのでしょうか。もしお心当たりの方が、おられましたら習志野警察まで連絡してあげてください。
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2006年12月24日

上総海道12


 丹生神社から、シェ・コモへいたる道は、県が言う東福寺まわりの道と、西光寺まわりの道があるが、織戸さんがたくさん住んでいる西光寺まわりを、わしは旧街道として推薦したい。
 シェ・コモから大日堂へ行くには、シェ・コモの裏を通って、大通りを渡り、キリスト教の教会前を通る方法と、シェ・コモ前の信号を渡り、津田沼幼稚園前の第六天神社を右折する方法がある。ここもどちらであったかが、確定できない。
由香
 ここは、江戸時代は、甘藷を中心に麦、西瓜、諸野菜を作っていた畑だったんでしょう。どちらの道も、谷津村から久々田村に行く間の農道にすぎないようなところだったんですから、どちらでもいいんじゃないですか。

 そういうことにしておこうか。
 ところで、この話の発端は、わいがや通りのタイガーというお店の横の小道が、瀬山とみさんの本の中で、江戸時代の本街道であったことが書かれていたということだったね。この小道を、道路を渡って、東の方へ行きまっすぐいくと、突き当たるが、道が右に曲がっていて、国道14号に行き当たる。
由香
 突き当たった左手の吉野さんが、屋号藤次郎さんなんですよね。

 実は、市役所下の信号から南下すると藤次郎にぶつかる。藤次郎さんには移転の話があり、もし移転されれば、国道14号まで道路がまっすぐにつながることになる。
由香
 でも、旧街道がわの藤次郎さんを右に曲がらずに、直進できる細い道がありますね。

 そのとおり。わしは、この小道が江戸時代の街道だったと思っている。この小道は、まっすぐ行くとライオンズマンションにぶつかるが、もしマンションを突っ切って、まっすぐ行けたならば、マンションの向こうにも道があり、鷺沼城址公園に行く道につながる。
由香
 鷺沼城址公園を抜けると、しらさぎ橋をこえて慈眼寺方面へ行けますから、これで谷津村、久々田村、鷺沼村と旧街道がつながって行きますね。
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2006年12月23日

上総海道11


 もう一度、話しを整理すると、丹生神社の鳥居の前の道をまっすぐ進むと、そのまま西光寺の前にでる。西光寺をぐるっと一周して南へ行っても、西光寺の30メートルほど手前で、右に曲がっても、どちらも京成の小さい踏切を越える。
由香
 踏切を越えてまっすぐ行くと、織戸さんの表札が掛かった家が続き、シェ・コモの後ろに出ますね。

 実は、そこの畑のかどに、道標があるんだ。
由香
 津田沼幼稚園の方から言うと、幼稚園の前を西に来て、信号を渡り、シェ・コモの駐車場の後ろに当たる場所ですね。そこに道標があるということは、昔からの道だったことがわかりますね。街道と書いた道標ですか。

 大師道としか書いていない道標なんだ。大師道とかいて、指で西光寺の方向を指している彫刻が彫ってあるんだ。
由香
 しかし、そこに道標が発見されただけでも、東福寺から国道14号方面へ直接行くのではなく谷津本郷を通る道が主要道であったことを推測させますね。シェ・コモの裏から先はどこへ行くんですか。

 30メートルほど先の階段を降り、道を渡って、キリスト教の教会のある方へ行く、その先を右に曲がって、大日堂の方へ行くんだ。
由香
 このあたりの道を、よほどよく知らないとついて来れる話じゃないですが、これで、丹生神社から、シェ・コモ裏の道標、さらに大日堂へと続く、旧街道と推定できる道がつながりましたね。

 何の根拠も示していない、県の本の説に比べると、瀬山とみさんの記述と、廣瀬家の古文書、さらにシェ・コモ付近の道標という三つの証拠がある、わしの説のほうが説得力があると思っておるんじゃが。
由香
 それだけじゃあありませんよ。爺さんの言う道には、途中に谷津の大日堂、第六天神社という、昔の人々がしょっちゅうお参りする場所があるんですから、その道の方が江戸時代の街道であった可能性が高いですよ。
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2006年12月21日

上総海道10

由香
 東福寺に突き当たって、右に行けば、まっすぐ国道14号に戻ってしまいますよ。県の本では、国道に戻ってから先はどう書かれているんですか。

 そのまままっすぐ、鷺沼まで行ってしまうんだ。
由香
 瀬山とみさんの言う、タイガーの横の小道は、現在の国道14号、千葉街道からすると、30メートルほど北側の道ですね。ここを西へ第六天神社まで行って、その先は何と書かれているんですか。

 第六天神社の裏の道を、まっすぐ西へ行くと谷津の大日堂へ行く。そこまで、瀬山さんが書いている。谷津の大日堂は、現在の住居表示で示すと、習志野市谷津1丁目1番1号となる。ただし、お堂は平成16年ころに撤去され、仏像などは、西光寺に移転されてしまったので、現在は更地になってしまっている。
由香
 第六天神社から、谷津の大日堂へ行って、その先は道がどこへ向っているんですか。

 実は、第六天神社の裏の道を、大日堂の方へ行くと、大日堂の手前に大きなマンションが建ってしまっているんで、道が消えている。しかし、反対側、国道側から大日堂の跡地に入ると、第六天の方から道が来て、西へ抜けていっているのが感じられるんだ。
由香
 その道は、国道14号の方へ行っていますか、北へ向って、谷津本郷の方へ行っていますか。

 現地を歩いてみると、谷津の大日堂跡地からの道は、またまた、同じマンションを抜けて、北へ向っていると感じられるよ。実は、前にも話した、マロニエ橋近くにあるフランス料理店、シェ・コモの裏側に続いているように思えるんだ。
由香
 あまりにも地元の小道の話なので、話について来れる人は、あまりいないでしょう。

 しかし、江戸時代の上総海道が、本当はどこを通っていたのかは重要な論点だよ。今まで誰も県の説明に反論する人はいなかったが、新しい証拠がいくつか出ているんで、ここで新説を話しているんだよ。将来もっと、別の新しい証拠が出てくるかもしれないからね。
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2006年12月20日

上総海道9

由香
 丹生神社の鳥居を左手に見ながらまっすぐ行くんですね。

 丹生神社から30メートルほど行くと、そのまままっすぐ行く方向と、右に曲がる小道があるね。
由香
 右に曲がるとすぐに、京成の小さな踏切を渡ることになりますよ。

 県の本では、この踏切を渡り、少し行って、突き当りを左折し、東福寺まで行くのが、街道と解説されている。東福寺に当たったら、右折し、そのまま国道14号まで、直進するというんだ。
由香
 それは地元にいる人にとっては、おかしいというと思いますよ。だって、ここを小さい踏切の方へ行かずに、そのまま直進すれば、谷津の一番古い地域である谷津本郷へ出ますよ。そこは、江戸初期に紀伊和歌山から移住してきたという織戸さんの村ですよ。

 その織戸さんたちの菩提寺である西光寺も、ここをまっすぐ行くと、突き当たるよね。
由香
 江戸時代は、谷津本郷がこのあたりの中心地だったんですよ。県の言う方向は、当時は誰もいない畑の小道に入りこんで、織戸さん達が集落をつくっているところを、わざわざ避けて行くような道ですよ。

 百歩ゆずって、小さな踏切を越えたとしても、東福寺に突き当たったら、左折し、西光寺のほうへ向わないとおかしいんじゃないだろうか。東福寺を右折するか左折するかでは、その後の久々田村までの街道がどうなるか、決定的に違ってくる。この辺の事情に詳しい地元の人がおられたら、是非コメントがほしいね。

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2006年12月19日

上総海道8


 習志野市内の江戸時代の上総海道が、どこであったかという話は、京成電車の谷津駅あたりから始めよう。
由香
 京成の谷津駅の南側の道から、話をスタートするんですね。国道14号ですね。

 この道を、谷津駅を過ぎて、100メートルほどいくと信号がある。この信号を左に曲がると、すぐに道祖神があり、消防署がある。
由香
 その先は、京成線の踏切がありますね。

 踏切を越えて、そのまままっすぐ行くと、谷津小学校から、JR津田沼駅まで行ってしまう。そこまで行っては行けない。踏切を越えたら、すぐに右に入る小さい道を探してくれ。
由香
 すぐに右に入る道を行くと、丹生神社がありますね。

 ちゃんと、にゅうじんじゃと言ったね。えらいよ。最近は、市役所の管理職でも、「 たんしょうじんじゃ 」と言う奴がいるから情けないよ。
由香
 この道を行くと、丹生神社のかどに当たりますが、ここにはいくつかの石仏が置いてありますね。

 それがまさに昔の街道であることを示しているんじゃないか。この石仏群の中のいくつかは、年代的にも古いし、造形もいいんで、市の有形文化財に指定してもいいんじゃないかといわれているね。
由香
 すでに市の文化財に指定されているものがあるんですか。

 この石仏群を含め、丹生神社の本殿や、周囲にたくさんある石碑など、市の指定文化財になってもおかしくないものがたくさんあるが、何一つ指定されていない。
由香
 どうして指定文化財にならないんですか。

 理由はわからないが、文化文政時代建築の本堂は、すぐに国の登録文化財になるし、さっきの石仏群や周辺の石碑は、十分に、市の指定にする価値がると思うよ。
由香
 このへんにも、郷土資料館がないという影響がでているんでしょうね。千葉県の市で、郷土資料館がないのは、習志野市だけですものね。


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2006年12月18日

上総海道7


 江戸時代の幕府の命令の効力が停止されたのは、ほとんどが明治5年なんだ。だから、廣瀬家の明治5年の質入証文は、歴史上最後の年号の質入証文ということになるね。
由香
 質入証文は、珍しいものなんですか。

 江戸時代は、質入証文のかたちで土地の売買が行われていたんで、ありふれた書類だよ。名主級の家には、大量の質入証文が発見されるのが普通だよ。
由香
 市内でたくさん発見された家はありますか。

 津田沼の旧家からは、不思議なことにあまり古文書が発見されていないんだ。実籾本郷公園に移築保存されている、鴇田家からは1万点以上の古文書が発見されているが、そこにはたくさんの質入証文が含まれていたよ。
由香
 ところで、上総海道の話に戻りますが、瀬山とみさんは、第六天神社から、弁天屋、三河屋を通り、藤次郎へ抜ける道が、江戸時代の本街道であると書いているんでしょう。その道に面している、廣瀬家の古文書にも前面道路が上総海道と記載されているんでしょう。そこまで証拠があるのに、県や市の本には、タイガーの横の道が上総海道だとは認めていないんでしょう。

 県の調査は、30年くらい前の調査だからね。当時はまだ、瀬山とみさんの本は出ていなかったし、廣瀬家の古文書も発見されていなかったんだよ。道標でもあれば問題がなかったんだけれどね。
由香
 道標は発見されていないんですか。

 もともとなかったんだろうから、出てくることはないかもしれないね。
由香
 30年前の、県の調査では、市内のどの道が、街道だったとされているんですか。

 京成の谷津駅から、西光寺、東福寺、そして津田沼周辺の地理に詳しくないと、この話はついて来れないよ。
由香
 県や市の説とは違う、重要な新説なんですから、ゆっくりと検証すべき重要論点だと思いますから、ぜひ聞かせてください。

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2006年12月17日

上総海道6


 江戸時代の初期に土地永代売買禁止令というのができたんだ。
由香
 日本史で習いました。寛永20年、1643年に、農民が田畑を売却できないように、売買を禁止したんでしょう。

 寛永の大飢饉で、農地をたたき売って生活を維持しようとする百姓の没落を防ぐためにできたといわれている。
由香
 士農工商の身分制を維持するため、農民を田畑にしばりつけるための命令だったとも聞いていますが。

 しかし、売買ができないなら、ほかの方法で同じことをやったんだよ。
由香
 どうやったんですか。

 土地の買主から、借金をして、その担保として土地を質入したかたちにする。そして、期限に借金を返さなければ、土地を渡す。つまり代物弁済で、借金を帳消しにするんだ。こうやって、実質上の土地の譲渡が行われていたんだ。
由香
 そうすると、明治5年の廣瀬家の証文というのは、土地の質入証文だったんですね。その付属図面に、前面道路が上総海道と書かれていたんですね。

 そのとおり。
由香
 でも、おかしいじゃありませんか。明治時代になったら、もう江戸時代じゃないんですから、そんな禁止令の効力はなくなったんじゃあないんですか。
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2006年12月16日

上総海道5

由香
 明治5年というのは西暦何年ですか。

 1872年だと思うよ。
由香
 廣瀬家は明治5年から、そこにあったんですか。

 廣瀬家は、もともと久々田本郷にあった。
由香
 久々田本郷って、京成津田沼駅前のあたりのことでしょう。

 東漸寺あたりから、京成津田沼駅、その先の菊田神社付近までをいうらしいよ。廣瀬家は、最近できた京成労組会館の駐車場から、東の道路までにわたってあったんだが、明治44年ころ、主屋を現在地に移築したんだ。
由香
 廣瀬家は、いつ頃からこのあたりに住んでいるんですか。

 最も古い墓石には、寛文12年、1672年の年号が入っていると聞いているんで、最低でも330年以上は、住んでおられるんじゃあないか。
由香
 そうすると、津田沼でも三橋家と並ぶ旧家ということになりますね。

 白鳥家もそうかもしれないが、よくわからない。
由香
 さっきの明治5年の古文書って、何が書かれていたんですか。

 現在の土地を入手した証文だよ。
由香
 明治5年の土地売買契約書ですか。どんなことが書いてあるんでしょうね。見てみたいわ。

 当時は、土地は、売買では入手できなかったんだ。
由香
 どうやって土地を手に入れたんですか。

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2006年12月14日

上総海道4


 タイガーの横の道は、荷車、つまり大八車一台が交互に通れる程度の道だね。これが江戸時代の街道だったんだ。瀬山とみさんが書き残した、第六天神社から、弁天屋、三河屋を通る道というのは、まさにこのタイガーの横の細道なんだ。
由香
 自動車も入れないこんな狭い道が、江戸時代の街道だったなんて信じられませんね。

 でも、このわいがや通りも、現在片側1車線の道路なんだから、江戸時代に、大八車が交互通行できれば、同じことなんじゃないかね。現代の自動車は、大八車より横幅が広いし、スピードが速いから、広い道が必要なんだが、大八車は、人が歩く程度のスピードだったんだから、この程度の幅でも十分交互通行できたんだよ。
由香
 でも、江戸時代のこのあたりの街道の道幅が今も残っているなんて、貴重な道じゃあ、ありません。このまま拡張せずに残して、房総往還の立て札を立て、瀬山とみさんの文章を入れた説明板を設置すればいいんじゃないでしょうか。

 ぜひそうしてほしいものだね。
由香
 さっき言われた、弁天屋、三河屋を通って藤次郎へ抜ける道といわれましたが、タイガーの向かい、東側の道も街道だったわけですね。

 そうだね、タイガーの横の細道を東へ延長すると、あっちの道へ入って行くね。向こうは、すでに道幅が拡張されていて、3メートルくらいありそうだね。あそこも江戸時代の街道だよ。あそこへ50メートルほど入ったところに、国の登録有形文化財建造物に、4棟の建物がなっている、廣瀬家があるんだよ。
由香
 国の文化財になるくらい古い家があるんですから、昔の街道であることは間違いないんでしょうね。

 廣瀬家の明治五年の古文書の付属図面に、前面道路が、上総海道と書かれているんだよ。
由香
 街道ではなく海道だったんですか。

 現在は、いろいろな本で、上総道とか房総往還と言っているが、明治五年に上総海道と書かれているんだから、このあたりの人は、当時、上総海道という表現を使っていたんだろうね。
posted by 絢 at 21:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月13日

上総海道3


 津田沼幼稚園のたぬき山にある第六天神社は、昔の海岸から約五百メートル離れておる。しかもかなり高台にある。海岸で働く人たちが、あそこまで登って参拝に行くのは不便だね。そこで、海岸に近い低地に分社を作ったというわけだ。
由香
 それが、さっき言われたタイガーの近くにある第六天神社なんですね。いったいどこにあるんですか。このあたりに神社があるなんて聞いたことがありませんよ。

 タイガーの横に、細い細い道があるだろう。そこを入って行くんだ。最初に左へ曲がる道があるが、そこは曲がらず、まっすぐ行く。2回目に左へ曲がる道を、道なりに行くと右手に鳥居が見えてくる。
由香
 言われたとおり行っていますが、何も見えません。鳥居なんて見えませんよ。

 最近、鳥居の前に家が建ってしまったんで見づらくなってしまったんだ。右から大回りして、第六天神社の裏側へ行く道もある。しかし、わかりずらいことは変わりない。
由香
 右から大回りして、第六天神社の裏側にきましたが、なるほど神社がありますね。でも、部材が腐って今にも倒壊寸前の状態ですね。

 ここは私有地だから、この状態からすると数年後には取り払われてしまうかもしれないね。見納めになるかもしれんな。
由香
 江戸時代から、明治、大正時代くらいまで、海の男達が舟に乗る前に必ず参拝に来ていた神社も、こんな崩壊寸前の姿になったんでは、哀れを誘いますね。

 いまでは海岸が埋め立てられて、海とは縁のない土地になってしまった。その結果、誰も省みる人がいなくなり、こんなみじめな姿になってしまったんだ。地元の人たちが、自分達の先祖が大事にしてきた神社を、どうするのかを話し合うべき時期にきているね。
由香
 ところで、瀬山とみさんは、この第六天神社から、タイガーのある、わいがや通りへ出る道が、江戸時代の街道だと書き残しているんでしょう。今通った道は、手を広げると両側につきそうなほど狭い道ですよ。江戸時代の街道は、こんなに狭かったんですか。
posted by 絢 at 18:06| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月12日

上総海道2


 第六天神社は津田沼には二つあるんだ。一つは、津田沼幼稚園のたぬき山といわれている茂みの中にある。幼稚園の前に、森のようになっているところがあるだろう。
由香
 たぬき山なら、津田沼幼稚園の人はみんな知っていますよ。そう言えば、南向きに鳥居があり、小さなお堂がありますね。あれが第六天神社なんですか。ところで、第六天って、どんな神様なんですか。

 わしも詳しいことはよく知らん。海の中に棲む妖怪の一種らしい。この妖怪が、舟の下にやってきて暴れると、舟が沈んでしまう。そこで、この妖怪を神様にして、この妖怪が暴れないようにと、お参りするところが第六天神社なんだ。
由香
 ようするに、海の男達が、海路の安全を祈願する神社ということですか。

 ようするに、そういうことだ。舟で江戸、東京へ貨物を運んでいた時代は、この神社へお参りする人が列をなしたといわれているよ。
由香
 今では、お参りする人なんて、見たことないですよ。

 この神社は、谷津に多い旧家の屋敷神でもあるんだ。だから、この旧家の人が、今でも大切にしているんだよ。
由香
 津田沼幼稚園の周囲にも、地元の歴史的な旧跡があるとは思いませんでした。

 もう一つあるんだよ。
由香
 何があるんですか。

 津田沼幼稚園の東側に、墓地がある。ここは、津田沼で最も古いクラスの旧家が関係している場所なんだ。
由香
 東側には住宅があるだけで、墓地なんかありませんよ。

 全く見えないような場所にあるんで、気づかないだけなんだ。将来、古い墓石の調査をするときは、ここも忘れてほしくないんで、あえてここで触れておくよ。
由香
 墓石に興味はないんで、探そうとは思いません。ところで、もう一つの第六天神社はどこにあるんですか。

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2006年12月11日

上総海道1


 白鳥製粉を過ぎるとそこから先は商店もまばらになるが、タイガーと言う看板が見えるあたりから、また商店が増えてくる。
由香
 タイガーの隣は、細い道をへだてて飲食店とレンタルビデオ屋さんがありますね。いつも車が止っているので、借りている人が多いんでしょうね。

 この飲食店とレンタルビデオ屋さんがある一画は、昔は屋号が弁天屋といわれた大きな家だった。その真向かいには、三河屋の立派な蔵が建っていたんだ。津田沼の三橋姓のおおもとである三河屋さんも、道路の拡張でなくなってしまったんだよ。松井天山の昭和3年の絵図には描かれているが。
由香
 現在の県道である、この道の中央あたりに三河屋さんがあったんでしょうね。昔の道は、かなり狭かったんでしょうね。

 昔の道といえば、瀬山とみさんの著書の中に、第六天神社から弁天屋、三河屋を通って藤次郎へ行く道が江戸時代の街道だったと書かれている。
由香
 江戸時代の街道って、上総道とか房総往還って言われる道でしょう。それは、今の国道14号、千葉街道のことじゃあないんですか。

 今の国道14号は、江戸時代は浜道といわれ、海が荒れると波が押寄せてくるような海岸沿いの道だった。明治になって、身分制が撤廃され、商売が自由にできるようになって、浜道に建物がたくさん建つようになった。当時は船の時代だったから、自由に建物を建てられる時代になると、浜道にみんな集まってきたんだ。そこから、現在の国道14号へと発展してきたんだよ。
由香
 それじゃあ、どの道が江戸時代の街道だったんですか、第六天神社って、どこにあるんですか。
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2006年12月10日

わいがや通り23

由香
 そうすると、津田沼での昔からある名前は、徳川家康をしたって江戸初期に三河からやってきたといわれる三橋姓(みつはし)、それにこの白鳥姓も多いんですね。

 吉野姓も多いだろう。さっきの眼神様のある床屋さんも吉野さんだし、とび職の大屋さんも吉野さんだ。町長と市長を輩出した吉野園も吉野さんだし、この先の左右の民家の表札を見ると吉野という名がいくつも見られるよ。
由香
 三橋、白鳥、吉野、が津田沼に多い名前なんですね。ほかにはどういう姓が多いんですか。

 植草、廣瀬あるいは広瀬も多いよ。
由香
 広瀬と廣瀬は系統が違うんですか。

 同じだよ。結婚して新しい戸籍を作製するときに、廣瀬を新字の広瀬に変えてもいいと言われるんだ。分家の人は、書きやすい広瀬に変える人も多いが、本家の系統の人は旧字体を選ぶようだね。
由香
 旧字と新字を選べるなんて知りませんでした、だから田沢さんは田澤と書いたりする人がいるんですね。

 前もって知っておくと、便利だよ。旧字の人と結婚するときは、どちらを選ぶか、考える時間があるからね。知らないと、役所で結婚届をするときに、突然、どっちを選んでもいいんですよと言われるので、あとで後悔することもあるかもしれないからね。
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2006年12月08日

わいがや通り22

由香
 白鳥製粉の向かいには広島建設がありますね。

 この広島建設の裏に小道がある。セブンイレブンの横から入っていける小道だけれど、そこに白鳥製薬がある。
由香
 こんなところに製薬会社があるんですか。

 大正五年に創業されたときは、精米業が中心だったが、初代社長の白鳥與惣左衛門(よそざえもん)が、お茶の葉からカフェインを抽出し、はじめて天然カフェインの国産化に成功したんだ。
由香
 白鳥製粉もそうでしたが、白鳥製薬も目の付け所のいい会社ですね。白鳥さんは賢い人が多いんですね。

 白鳥與惣左衛門という名前は江戸時代から襲名されてきたが、商いにたけているのか、江戸時代はこの地域を代表する農家だったし、、明治、大正、昭和、そして平成の現在に至るも、津田沼を代表する企業なんだ。
由香
 たしか白鳥義三郎さんもこの家の方ですよね。

 初代市長白鳥義三郎氏も、白鳥與惣左衛門家の人だよ。
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2006年12月07日

わいがや通り21

由香
 でも、あそこにある顕彰碑は、横向きになっていて、吉野茂吉翁の業績を、通行人が見ることができませんね。

 久々田公園や東漸寺などの、吉野茂吉の大正学館にできるだけ近いところに、石碑を移し、説明板を立てて、彼の業績を後世の人が、すぐにわかるようにしてほしいものだね。市がやるべき事だと思うよ。
由香
 それでは、先へ行きましょうか。この吉野茂吉翁の顕彰碑が建っているアパートから3軒先に、白鳥製粉がありますね。

 白鳥製粉は、そば粉を南半球で作ったことで有名なんだ。
由香
 南半球ってオーストラリアですか。

 秋に収穫されるそばを、オーストラリアで栽培すれば日本の春にも、そばが収穫できるだろうというんで、実行した、えらいお店なんだよ。
由香
 そばは寒冷地や、やせ地にも育つ植物だからオーストラリアでも十分育つでしょうね。目の付け所がよかったんですね。
 ところで、白鳥という名前はきれいな名前ですね。どうして津田沼には白鳥姓が多いんですか。

 鷺沼という地名が古くからあるように、このあたりには今でも、白鷺がたくさん飛んでいる。ラムサール条約登録地の谷津干潟へ行けば、ダイサギ、チュウサギ、コサギ、アオサギがたくさんいるだろう。
由香
 アオサギ以外はすべて真っ白できれいですね。姿の美しい白鷺が飛んでいるのを見ると、津田沼っていいところだなーって思いますものいね。

 この近くでは、袖ヶ浦団地の中を通っている京葉道路の南側に運河があるが、そこへ行けばたいてい白鷺が見られるよ。
由香
 昔の人は、白鷺がたくさん飛んでいる姿を見て、白鳥と言う姓を作ったのかしら。

 名前の由来は知らないが、白鷺に由来することは十分考えられるね。このあたりに多い植草姓、白鳥姓は千葉県に多い名前としても知られているからね。動物の名がついた名前に変えるとしたら、どんな名前にしたいかという調査でも、トップが白鳥姓だと言われているからね。

 
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2006年12月05日

わいがや通り20

由香
 吉野茂吉翁って誰ですか。

 そうだろうね。誰も知らなくなってしまったね。習志野市は、郷土の発展に尽力した先人の努力を、総合学習や何らかのかたちで伝える努力をしてほしいものだね。数年前、市議会で、白鳥義三郎初代市長を顕彰し、銅像を建てたらどうか、という発言があったが、議論もなく消えてしまったね。
由香
 吉野茂吉さんは何をした人なんですか。

 地元の小学校の校長を歴任した教育者だ。貧しい人々に施しをしたことでも有名で、大正義人とまで言われた立派な人物だ。
由香
 義民として有名なのは佐倉惣五郎でしょ。過酷な年貢の取立てで苦しむ農民を救うために命を投げ出した人でしょう。

 吉野茂吉も私財を出して貧しい人々に施しをした。市史の中に大正義人について書かれたところがあるから、ぜひ読んでおいてほしいね。
 前に、大正6年9月30日の台風による津波で、たいへんな被害が出たことを話したが、そのときも消防組合から200人の出動と、軍隊から鉄道大隊の出動を要請し、被災地の復旧にリーダーシップを発揮したといわれている。そして軍人や地元の慈善家から、700円もの義捐金を集めて、被災者に、材木や米を配ったといわれている。
由香
 だからこんな立派な石碑が造られたんですね。いつ造られたんですか。

 昭和9年2月8日に建てられている。高さ3メートル、幅約1メートルもあるよ。
 昔は、小学校を卒業しても、近くに上級の学校がなかった。だから、吉野茂吉は、ここに中学校に相当する大正学館という学校をつくって、ほとんど一人で、地元の子供達を教育していたんだ。
由香
 ここに学校があったんですか。

 大正元年に開校し、昭和五年までに1、179人が通ったと記録されている。松井天山の絵図にも描かれているよ。
由香
 大災害のときにリーダーシップを発揮し、中学校に行けない子供達に、自分で学校を作って教育したんだから、すごい人だったんですね。

 まだある。明治時代の代表的な教育雑誌が、教育に関する論文を募集したところ、吉野茂吉の論文が一等当選している。ほかにもいくつもの教育論文が入選したので、その後は、いろいろな教育雑誌に論文や教育実践報告が掲載されるようになっている。
由香
 たいへん頭脳明晰な、学者のような人でもあったんですね。

 学者は世間から隔絶したようなところで研究しているが、吉野茂吉は、津田沼町会議員や久々田信用購買販売組合の理事長もやり、地元の政治、経済、教育のすべてにかかわってきたんだよ。

posted by 絢 at 06:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月04日

わいがや通り19


 三橋米店に屋号大屋の吉野工務店を過ぎると、その隣はアパートになっているね。
由香
 向いはセブンイレブンですね。

 このセブンイレブンも古いね。わいがや通りで、一番繁盛している店になってしまっていると思うよ。
由香
 セブンイレブンが、加盟店を増やしていった初期の頃の店なんですね。

 セブンイレブンの話より、向いのアパートの石碑の方が重要なんだ。
由香
 セブンイレブンの真向かいのアパートに石碑がありますか。なにもありませんよ。

 そこに見えているじゃないか。あんなに大きい石碑があるじゃないか。
由香
 アパートの前は駐車場になっているし、車は見えますが、石碑なんてありませんよ。

 アパートの入口は左側、南側にあるだろう。その前に石碑があるじゃないか。
由香
 ほんとうだ。敷地の左の隅の奥の方に大きな石碑がありますね。こんな石碑、誰も知りませんよ。このアパートの住人以外、誰もその存在自体知らないでしょう。住人以外こんな奥まで入ってきませんよ。

 そうかもしれないね。誰かから言われない限りわからない存在になってしまったね。でも、このアパートが建つまでは、敷地の前面にあって、誰もが気がつく石碑だったんだ。
由香
 こんな立派な石碑が、どうしてこんな隅に追いやられているんですか。

 そろそろどこかの公園か東漸寺か、菊田神社あたりへ移転しなければならないかもしれないね。個人を顕彰する石碑は、軍人以外では、市内に4つしかない。
由香
 4つってどんな、どんな顕彰碑ですか。

 伊藤左次兵衛の碑が慈眼寺にあり、山県飛行士の殉空の碑が鷺沼の畑の中にあり、鷺沼源太などの鷺沼の古武士の碑が鷺沼城址公園にある。そしてこの吉野茂吉翁の碑の4つだ。
posted by 絢 at 06:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月02日

わいがや通り18


 松竹梅のなかで、松が一番めでたいのは、由香ちゃんはなぜだと思う。
由香
 松は常緑で、1年中緑色をしていて、枯れることがなく、枝振りも見事だからなんだろうと思っています。

 ところが、実際は、秋に古い松の葉が大量に落ちているんだが、そのときには新しい葉が、すでに出ているから、1年中緑がきれいに見えるんだね。
 ところで、松の葉は何枚に分かれていると思う。
由香
 松の葉は2本の針のように分かれていますね。

 松葉は、秋に古い葉が落ちても、二枚の葉がくっついたまま落ちる。そこから、夫婦円満の象徴として、おめでたいといわれているんだよ。
由香
 へーそうなんですか。久々田公園の近くに松葉鮨というお鮨屋さんがありましたが、夫婦円満になるおすし屋さんだったんですね。

 そのほかに松には、葉が1枚のものと3枚のものとがある。五葉松という名を聞いたことがあるかな。
由香
 それじゃあわかります。針のような葉が五枚くっついているんでしょう。五葉松って、御用松って書くんだと思っていましたが、違うんですね。

 何枚がない。
由香
 葉が4枚の松はないんですか。

 4はないんだ。しがないは死がないに通ずるな。
由香
 常緑で、夫婦円満、そして亡くなることがないとなったら、最高におめでたいというわけだったんですか。目からうろこですね。よく覚えておきます。
posted by 絢 at 08:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月01日

わいがや通り17

由香
 わいがや通りというのは、そこのアーケードが終了したところで、終わっているんじゃないんですか。

 そんなことはないよ、ここは国道14号までずっと、商店街の街路灯が続いているじゃあないか。アーケードがなくてもわいがや通りなんだよ。タイガーの前の街路灯を見てごらん。
由香
 ほんとだ。この先のタイガーというお店の前の街路灯には、わいがや通りという看板がついていますね。
 ところで、この三橋米店の、道路の向い側には大きなお屋根の民家がありますね。なんだか、瓦屋根じゃあなく、帽子をかぶせたような感じですね。

 たぶん、草葺きの屋根に覆いをかぶせてあるんだろうね。農家のおうちで、いつも入口のところに、朝とった野菜が100円で買えるようにおいてある。
由香
 草葺きだったら古い建築じゃあないんですか。

 よく見ると、南側の玄関に小さい屋根が造られている。玄関に小屋根を乗せるようになったのは、わしの研究では大正から昭和初期以降なんじゃ。
由香
 それでも戦前の建物であることは間違いないんでしょう。

 この道路の拡張で、建物が改築されている可能性もある。あの木の枝も、道路に大きく出っ張っているだろう。道路拡張前は全体が敷地内にあった木だと思うよ。
由香
 あの木はきんもくせいで、9月の終わりから10月のはじめにかけて、甘い香りをただよわせてくれますね。習志野市は名木百選を指定していますが、まだ75本程度しか指定されていませんよね。このきんもくせいを名木にしてほしいですね。この通りを歩く市民に一番親しまれている木として。

 このあたりで、名木百選に選ばれている木は、どれだと思う。
由香
 東漸寺の門を入った右にあるイチョウが、百選に入っているとおっしゃっていましたよね。

 ほかには。
由香
 わかりません。

 東漸寺を入って、すぐ左正面にある松の木も百選に入っているんだよ。松といえば、もう12月、早いところではそろそろ門松を準備する季節になってしまったな。
由香
 おめでたいものを松竹梅といいますが、どうして松は一番おめでたいんですか。
posted by 絢 at 07:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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