2007年09月26日

津田沼発19

由香
 市川や船橋は、津田沼に比べてどういう違いがあったんですか。

 アドバンテージが与えられていた。
由香
 テニスじゃないんですから、アドバンテージなんて言わないでください。どこが違っていたんですか。

 由香ちゃんが言うとおり、市川と船橋は、津田沼より江戸に近いというアドバンテージがあった。
由香
 だから津田沼よりたくさんの農産物を江戸へ運んでいたんでしょう。その結果、泥面子は津田沼より多く・・・

 とは限らないんだ、江戸へ運んでいた農産物の種類が違っていた。
由香
 どういう事ですか、種類が違うって。

 津田沼の江戸時代後期の農業生産物の大部分は何だと言ったっけ。
由香
 この話を、まえから聞いている人はわかるでしょう。津田沼は農業生産高の8割が甘藷、つまり、サツマイモでした。

 そのとおり、江戸末期から明治時代、昭和初期まで、津田沼は甘藷の特産地だった。だから、津田沼の海岸からは甘藷を江戸、東京へ舟で移送していた。その甘藷を海岸沿いで蔵に保管し、舟へ積んでいた問屋のひとつが廣瀬家で、その甘藷蔵が2棟、今も残っているんだったね。明治24(1891)年と明治42(1909)年の2棟だ。廣瀬家は、この当時の甘藷蔵が残っているただ1軒の昔の海岸沿いの商家で、2棟とも、国の登録有形文化財建造物になっているんだったね。
 しかし、考えてごらん。津田沼の海岸は、東京湾の最奥部で、引き潮のときは数キロ先まで干潟が現れた。この干潟が、カチンカチンになるんで、伊藤音二郎の飛行機の滑走路になったんでしょう。だから、船を出すのはたいへんだった。
由香
 はるかむこう数キロ先まで遠浅ということは、満潮で、風の具合も良いときしか出港できなかったんですね。

 しかし、江戸に近い市川、船橋は船を使わなくてもよかった。
由香
 あー、そういうことですか。市川、船橋の農家は、舟ではなく、荷車で江戸へ農産物を運んでいたんですね。

 そういうことなんだ。市川、船橋の農家は生鮮野菜を、荷車で江戸、東京へ毎日運ぶことができたんだ。荷車なら、満潮や風の具合に関係なく、出荷できたんで、収入も、不定期の舟で輸送する、津田沼以遠の地域より多かったと想像できるね。津田沼以遠は、生鮮野菜を出荷することは、市川や船橋よりむずかしかったんだ。
由香
 そのことが、泥面子の出土に影響しますか。

 舟に比べると荷車は、糞尿や塵芥を積んで帰るのは困難だったろう。舗装道路じゃないから、途中でこぼれてしまうんじゃなかろうか。しかし、舟なら、天候さえ良ければ安定していて、糞尿もこぼれず、塵芥も落とさずに持ちかえれただろう。
由香
 ようするに、爺さんが言いたいのは、市川、船橋の人は荷車で農作物を江戸へ運べたが、荷車では、安定しないので、糞尿や塵芥を持ちかえる量が、舟を使う津田沼以遠の人々よりも少なかったといいたいんですね。

 その結果、津田沼以遠は市川、舟橋地域よりたくさんの泥面子が出土するという理論になるわけじゃ。これはわしがかってに考えた理論なんで、異論もあろう。そのときはぜひ教えてほしいもんじゃ。
由香
 津田沼の農業生産高の8割以上が甘藷、つまりサツマイモだった理由は、以前詳しく話してもらいましたね。

 さっき、由香ちゃんが言いかけた、新規開拓地の地名は明治以降につけられたという話を少ししておこうか。
 
posted by 絢 at 17:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月24日

津田沼発18

由香
 ようするに、津田沼からの農産物を載せた舟が、江戸へ行き、帰りの空になった舟に、江戸の人々の糞尿や塵芥、つまりゴミを持ちかえって来たという事でしょう。

 そいうことになるね。海岸沿いにはゴミを積み上げた、ゴミ河岸と呼ばれた地域が数カ所存在していたことは、瀬山とみさんが書き残した自叙伝「あしあと」の中にも書かれているね。
由香
 どうして、ゴミや糞尿の中にたくさん泥面子が入っていたんでしょうか。そんな中に入れますか。

 子供の遊び道具として大量に作られていたから、子供が成長した後、ゴミとして捨てられたとか、引越しや、江戸の花といわれた火事の後始末のゴミに含まれていたことは、考えられるね。
 浮世絵は、ヨーロッパへ輸出された陶磁器のクッションに使われていたんだから、紙は、貴重品だけれど、かなり豊富にあったことが想像されるよね。泥面子などは、相当な数が造られただろうね。鉄などの金属は回収されたことが、「あしあと」に書かれていたよね。
由香
 当時のゴミは、食べ物の残飯、落ち葉、材木、紙、竹、くらいしか考えられないから、すべて肥料になりえたでしょう。泥面子だけは、分解されずに残ったと言うことでしょう。
 江戸からの帰り舟に、泥面子がたくさん混じっていたんですから、船橋や、市川でも、たくさん泥面子が、出てくるんでしょうね。

 そういうことはないと思うよ。全くないわけではないだろうけれど、津田沼ほどではないと思うよ。
由香
 どうしてですか。現在の船橋市や、市川市の方が江戸に近く、習志野市より数倍面積が広いんですよ。当然、津田沼よりたくさん泥面子が出てくるでしょう。

 船橋や、市川の泥面子の出土状況を調べたわけではないけれど、理論的には、津田沼より少ないはずだ。
由香
 いったい、爺さんの理論はどうなっているんですか。誰が考えても、船橋や市川の方が、たくさん泥面子が出てくるはずですよ。またまた、理解できません。
posted by 絢 at 18:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月23日

津田沼発17

由香
 広大な小金牧を開拓するとなったら、たくさんの人が必要でしょう。当時はすべて手作業で、林や草原を畑や水田に変えていったんでしょうから。

 その人々をどうやって連れてきたと思う。
 実は、当時たくさんの失業者がいたんだよ。
由香
 明治初期の失業者といえば、誰でしょう。

 徳川幕府から、明治新政府に変わると、旧幕府時代の侍、つまり士族が大量に失業者になったんだ。
由香
 今風に言えば、幕府に仕えていた士族は、公務員みたいなものですよね。その幕府がなくなってしまうと、公務員全員が失業したようなものですね。大失業時代の到来だったんですね。

 その失業者を、広大な放牧地の開拓に動員したんだよ。
由香
 アメリカのニューディール政策みたいじゃないですか。

 1930年代のアメリカは4人に1人が失業者だった。その失業対策のために、ルーズベルト大統領が、テネシー川開拓をやったんだね。日本は、その60年も前に、大規模な失業対策をやったんだよ。
由香
 明治初期といえば、北海道の開拓も行われたんでしょう。

 北海道は、最初は東北地方の士族がたくさん行ったんで、東京周辺の士族は、馬の放牧地の開拓に行ったんだろうね。
由香
 そうすると、地名も、明治以降につけられた新しい地名が多いということですね。

 しかし、最初に開拓地に入っていった人々は、たいへんな苦労をしたらしい。うまく開拓できずに、また東京に戻っていった人も多いらしいよ。その辺のことは、いろいろな本に書かれているから、興味があれば読んでみるといいよ。
由香
 泥面子が、津田沼より内陸部へ行くと発見されないか、発見が少ないという理由はわかりました。それでは、どうして、江戸の子供の遊び道具の泥面子が、津田沼にたくさん運ばれてきたんですか。
posted by 絢 at 11:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月22日

津田沼発16


 泥面子をグーグルで調べると、遊び方や製造方法など、いろいろ出ているではないか。
由香
 だから、どうして習志野市内でたくさん泥面子が発見されるのか、を知りたいんでしょうよ。

 津田沼は昔の海岸だったところじゃが、もっと内陸部へ行くと、泥面子はどうなると思う。
由香
 内陸部というと八千代市や船橋市になりますが、どうやっていくんですか。

 新京成線に乗れば、畑が広がる内陸部へ連れていってくれるではないか。車で行ってもいいよ。
由香
 広大な畑が広がっているんだから、泥面子もたくさん出てくるんでしょうよ。

 それが出てこない。
由香
 そんなわけないでしょう。津田沼は住宅が多くなってきたんで、泥面子も見つけにくくなったでしょうが、内陸部へ行けば、広大な畑が今も広がっているんですから、泥面子もたくさん出てくるでしょう。

 それが出てこない。
由香
 どうしてですか。

 質問者が言うように、泥面子は江戸の子供達の遊び道具だった。それがゴミと一緒に舟で津田沼に運ばれてきて、肥料として畑にまかれたんだ。肥料としてというよりも、肥料に混じってというべきかもしれん。
由香
 それなら、肥料が内陸部にまで運ばれて、畑にまかれてもおかしくないんじゃないですか。

 残念ながら、江戸時代には、内陸部には畑がなかった。
由香
 どうしてなかったんですか。

 ここまで言えば、由香ちゃんならもうわかるだろう。江戸時代に、内陸部はどうなっていたんだい。
由香
 ああそうですね、江戸時代は内陸部は小金牧といわれた広大な幕府の馬の放牧地だったんですね。

 馬が放牧地から外へ出られないように、万里の長城のように土を積み上げた土手をめぐらしていたんだろう。
由香
 だから、内部には牧士(もくし)と呼ばれた関係者以外は住んでいなかったし、出入りも制限されていたんですね。

 土手の出入り口を何といったんだっけ。
由香
 たしか、木戸ですね。

 成田街道の陸運局から自衛隊前の、いつもたいへんな交通渋滞を引き起こしている場所は・・・
由香
 新木戸(にいきど)ですね。あそこの渋滞はなんとかしてほしいですね。陸運局の方から新木戸を越えるのは、たいへんですよ。うんざりします。

 高根団地の方へ行くと高根木戸というところもあるね。
由香
 つまり、江戸から運ばれたゴミからできている肥料は、土手よりも内陸部へは行かなかったということですね。

 話は飛ぶが、新木戸には、血流地蔵道標( ちながれじぞうどうひょう )という、おそろしい名がきざまれた道標が今も建っているのを知っているかい。
由香
 そこで大量虐殺があったんですか。そういえば、八千代市は関東大震災のときに朝鮮人を虐殺したという歴史がありましたよね。その場所なんですかね。

 興味があったら、八千代市の歴史を勉強してくれよ。
 話を進めると、明治時代になってから、そうした内陸部、つまりかっての馬の放牧地が開拓されたんだが、どういう人たちが開拓に参加したとおもうかね。


 
posted by 絢 at 18:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月20日

津田沼発15

由香
 爺さん。コメントが入っていましたよ。泥面子(どろめんこ)について、ですって。

 泥面子は、グーグルで泥面子と入れれば写真が出てくるから、どんなものかはすぐわかるだろう。わしがまず気になったのは、質問者の、「 私と泥面子の最初の出会いは子供の頃、マロニエ通りと14号線の角にある神社に置いてあったものを見つけた時でした。 」、という下りじゃ。
由香
 マロニエ通りと14号線の角には神社がないと言いたいんでしょう。

 そのとおり。昭和3年の松井天山の絵図にも、神社らしきのもは書かれていない。
由香
 そもそも昭和3年には、マロニエ通りは、なかったでしょう。ただの畑だったんではないんですか。

 その交差点付近で、最も近い神社は、海側の第六天神社じゃが、これではかなり今のマロニエ通りから離れておる。
由香
 そうすると、爺さんの推測では、どこのことを言っているとお考えですか。

 質問者の言われる交差点から、14号を東に、つまり鷺沼方面に40メートルほど行くと、個人の家の表札に「 谷津町1−1−1 」と書かれている場所がある。歩いて行けば、すぐに見つかるよ。
由香
 習志野市の住居表示で、町がつくのはめずらしいですね。習志野市津田沼町とか、習志野市鷺沼町なんて、聞いたことないですが、習志野市谷津町は本当にあるんですね。

 そこの建物の奥の方、つまり北側を良く見てほしい。
由香
 あそこはたしか、階段がありましたよね。

 よく知っているね。その階段の上には谷津の大日堂があったんだ。そこのことを言われているんじゃないかと思っているんだ。
由香
 あったという過去形の表現を使われましたが、今はないんですか。

 3年ほど前に、お堂も、境内にあった石碑類もすべて撤去されてしまっている。
由香
 谷津の大日堂って、いつ頃からあったんですか。

 わしが、5年くらい前に調べたときは、1700年代初期の石碑があったから、少なくとも300年くらい前から、谷津の大日堂は、あったと思うよ。
由香
 300年も前からあったお堂を、どうして3年くらい前に撤去してしまったんですか。

 お堂に上がる階段のすぐ右に住む人が、町会長さんにお願いして撤去してもらったと聞いているよ。
由香
 習志野市の教育委員会は、撤去を承諾したんですか。

 習志野市の教育委員会は、大日堂が撤去されたことを知らなかったんだよ。
由香
 そこは、現在は、どうなっているんですか。

 階段の上は、平らな更地になってしまっていて、なんにもなくなってしまっている。そして、人が入れないようにフェンスも張られている。
由香
 大日如来はどこへ行ってしまったんですか。

 実は、町内会が谷津の西光寺にお願いして、西光寺の境内に本尊と一部の石碑が移築されているんだ。
由香
 すべてのものが移築されたんですか。

 残念ながら、すべてではない。本尊と、4つか5つの石碑が移されただけで、石の灯篭や富士講、出羽三山講などの石碑は消滅してしまっている。
由香
 そういう石碑には、寄進をした村民の名前が書かれていますよね。それが貴重な記録なんですが、教育委員会は、きちっと記録をとったんでしょうかね。

 教育委員会が知らないうちに処分されてしまったんで、記録をとっていないんだよ。ただ、撤去される1年前に、偶然、教育委員会が写真を撮っていたんで、当時の状況はわかるが、石碑に書かれいた村民の名前までは記録していないんだ。
由香
 ようするに、この質問者が言っておられる神社というのは、300年間もあったにもかかわらず、教育委員会が詳細な記録をとることもないうちに、3年前にすべて撤去されてしまった、谷津の大日堂のことだろうと、爺さんは言いたいんですね。

 ようするに、そういうことだ。
由香
 泥面子に話が行くまで、まだ時間がかかりそうですね。

 考えてみなさい、西光寺と、大日堂は宗派が合うのか否か。
由香
 西光寺は真言宗豊山派ですから、大日如来を究極の仏様と考えているんでしょう。だったら、問題ないですよね。でも、習志野市に郷土資料館があったら、もっと詳しい記録をとっていたことでしょうね。

 村民の名前が書かれていた灯篭は、どこへ行ってしまったんだろうなあ。
由香
 そろそろ、泥面子の話に入ってもらえませんか。

 

posted by 絢 at 00:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月15日

津田沼発14

由香
 最近は、わいがや通りも、お店の入れ替わりが多くなりましたね。

 前に登場していただいた喫茶店の両側には、広島風お好み焼きの店と、焼き鳥居酒屋が開店しておりますぞ。
由香
 広島風お好み焼きというのは、普通のお好み焼きとどこが違うんですか。

 お好み焼きにそばがのっかっておる。
由香
 日本そばですか。

 そうではない。やきそばのそばが上にのっかったお好み焼きじゃ。
由香
 どうしてそんなお好み焼きができたんですか。

 お好み焼きだけでは腹がすく。満腹感を出すために、そばが入れられたらしい。
由香
 おいしいんですか。

 このお店にはまだ入ったことがないんでわからん。
由香
 どこの広島風お好み焼きを食べたんですか。

 広島風お好み焼きは、店によって味がたいへんに違う。絶品の店は、東京は神田駅から3分の、広島風お好み焼きの店「カープ」じゃろう。ここの広島風お好み焼きを一度食べると、やみつきになってしまうほどおいしいぞ。ネギ乗せといって、関西の青いネギを上にのせると、震えるほどおいしいぞ。
由香
 関西から材料を取り寄せているんですか。

 広島から取り寄せているという話じゃ。とにかくカープで、広島風お好み焼きを食べると、とりこになってしまうほどおいしい。わいがや通りのお店も、このくらいの味を提供してほしいもんじゃ。
由香
 まだ入ってないんでしょう。連れていってくださいよ。

 考えておくよ。 
posted by 絢 at 21:52| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月13日

津田沼発13

由香
 爺さん、たいへんですよ。安倍総理が辞任しましたよ。

 それが、津田沼とどういう関係がある。
由香
 それはどうでしょう。商工会議所の会長さんにでも聞いてください。

 それより、わいがや通りの高梨堂が今年の春に閉店したほうが、津田沼の歴史には事件じゃよ。なにしろ、昭和3年の松井天山の絵図にも出ている高梨家じゃからな。
由香
 駅にすぐ近くの、わいがや通りでも一番良い場所にありますが、いまだに次のテナントが入っていませんね。

 ここ数年で、わいがや通りのお店がかなり変わってしまっておる。なんといっても特徴は、新しいテナントが、ほとんど美容院というかヘアーメイクのお店であることじゃ。
由香
 これなら、いっそのこと美容院や床屋さん、ヘアーメイクの店を大量に集めて、ヘアーメイク通りにしてしまった方が、有名になっていいんじゃないかしら。

 京成津田沼駅前から、国道14号までに、9店くらいある。昔からあるのは3店くらいで、そのほかはこの数年の間にできた店じゃ。
由香
 そんなに増やして、やって行けるんでしょうか。国道14号、京成津田沼駅入口交差点の、昔、墓石店があったところも、美容院になりましたが。

 わいがや通りだけでない、京成津田沼駅周辺には、この9店以外にも、美容関係の店が5軒か6軒ある。
由香
 こんなにたくさんあるんですから、商工会議所は、各店の特徴を比較した広告を広め、津田沼以外からも、お客さんが来るように広報してはどうかしら。

 市役所前の、旧習志野高校グランドを駐車場として解放し、ゆっくり市内を歩いてもらえばいいんじゃなかろうか。
由香
 2時間まで無料の駐車場があると、便利かもしれませんね。
posted by 絢 at 07:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月08日

津田沼発12

由香
 昨日の台風はすごかったですね。風の音がすごかった。

 あんなすごい風の音を聞いたのは久しぶりだなあ。地球温暖化で台風の勢力が強まっているんで、これからもあんなすごい風がふくだろうね。
由香
 でも、雨はたいしたことなくて良かったですね。雨は、高い山がある地方に集中したようですね。

 房総半島の山は、すべて標高500m以下の、雲にも届かない程度の低山ばかりだからね。
由香
 ところで、この春から夏にかけて、わいがや通りの2軒のラーメン店が閉店しましたね。

 駅前に大手チェーン店の店ができたんで、価格競争に負けてしまったようだね。しかし、ひとつの方の後には、焼き鳥店が開店した。時代が変われば、その時代にあった店だけが生き残る。
由香
 最近はこのあたりにもアパートやマンションが増えてきました。住人が増えれば、わいがや通りにも活気が出てくるでしょう。

 ぜひそうあってほしいものだね。
posted by 絢 at 17:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月04日

津田沼発11

由香
 サッカーは、決勝でジェフ千葉ユースを破った順天堂大学が優勝したみたいですね。

 優勝するとどうなるんじゃ。
由香
 天皇杯に出られるそうですよ。

 県大会は天皇杯の県予選じゃったのか。思うに、秋津にはサッカー場と野球場があるんだから、年間スケジュールがわかれば、近くでナマでスポーツが見れて楽しいのう。
由香
 定年退職したシルバー世代が見に行けば、時間つぶしには、もってこいでしょう。秋津なら、歩いても30分、自転車なら10分もかかりませんから。

 それなら、幕張メッセのスケジュールも入手した方が良いぞ。結構、無料で入れる展示会があるんじゃ。
由香
 幕張メッセまで歩いて行ったらたいへんでしょう。

 幕張メッセまで何度か歩いたが、たっぷり2時間かかる。しかし、自転車なら30分で行けるぞ。
由香
 あんなところまで歩いたなんて信じられません。遠すぎますよ。

 交通機関を利用する方が面倒じゃ。歩いて京成津田沼駅まで行って、京成電車に乗る。幕張本郷駅で降りて、京成バスに乗り換える。海浜幕張駅で降りて、メッセまで歩く。これは結構面倒なんじゃ。運動を兼ねて、自転車で行った方が楽しいぞ。
由香
 時間がたっぷりあるシルバー世代にしか、できませんね。普通の人には遠すぎます。

 ところで、最近遊具が消えておるのを知っとるか。
由香
 どこの遊具ですか。知りませんよ。

 市内の公園にある、子供の遊び道具のブランコやすべり台が、次々となくなっておるんじゃ。
由香
 中国からきた金属窃盗団に持って行かれているんでしょう。

 そうなのかなー。夏休みに子供達が遊べなくて困っておったよ。
由香
 最近全国的に遊具の事故が多いんで、市役所が、古い遊具を回収しているんじゃないんですか。

 それならそうと、市の広報で、知らせてほしいもんじゃなあ。
posted by 絢 at 07:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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