2006年06月17日

瀬山邸はなぜ洋風なのか


 建物はその歴史を物語ることで、よりいっそう輝いて見えてくる。一宮にあるごく普通の建物が、芥川竜之介が1ヶ月逗留し、ラブレターを書いたというだけで文化財になってしまった。ほかにも北原白秋が住んだ家が市川で保存されているし、夏目漱石や森鴎外が住んだ借家は明治村に移築されて、国の重要文化財にまで指定されている。
由香
 瀬山邸にはどういう歴史があるんですか。

 この建物の設計者は三代川長吉となっているが、実は三代川長吉の自宅として建てられた家で、跡取娘のとみさんが瀬山卓蔵と結婚したので、今では瀬山邸と呼ばれているんだ。だから長吉の話をしないとこの建物の歴史は見えてこないんだ。
由香
 もとは三代川家の建物だったというわけね。その三代川家は、どういうわけでこの建物を建てたの。

 三代川家は江戸末期からの回漕店だった。
由香
 回漕店ってなんのことですか。

 海運業者のことだよ。昭和40年頃までは、国道14号から先は海だった。そこから船で、甘藷(かんしょ)を中心とした雑穀、米、薪、炭が江戸,東京へ出荷されていたんだ。
由香
 今では、袖ヶ浦団地があって、その先もずっといろんなものがあるので、海だったなんて信じられませんね。

 だから誰かが昔のことを語り継がないと、消えてしまうんだ。
由香
 現代の稗田阿礼みたいですね。

 三代川家は江戸末期から回漕店として繁栄していたが,鉄道の開通によって影響を受けるようになった。決定的だったのは,鉄道が明治43年に複線化され、輸送量の増大と運賃の値下げが実現したことだった。さらにトラックによる運送が始まったのも追い討ちをかけた。明治4年生まれの長吉は、父の急死のため、数え16歳で家業を継いだが、明治末期に海運業に見切りをつけ、でんぷん製造工場を建てた。
由香
 どうしてここで突然、でんぷんが出てくるんですか。

 津田沼とでんぷんを語り始めると、長い長ーい話になるんで、あとで話すことにするよ。とにかく明治の18年頃には現在の千葉市蘇我のあたりで、でんぷん製造の工法が改良され、高収益をあげられるようになった。長吉も千葉市に工場を建設し,澱粉改良同業組合長や津田沼町会議員を歴任し、見事に海運業から転進した。
由香
 傾いた家業を澱粉で建てなおし,家まで建て替えたというストーリーが見えてきましたよ。

 当時はでんぷんでもうけた人がたくさん出て、彼らが建てる家を澱粉御殿といわれた。
由香
 この家も澱粉御殿の一つだということはわかってきましたが、どうして洋風の家にしたのかしら。

 長吉は回漕業ということで、船でよく東京へ行っていた。そこで、近代化の象徴のような洋風の建物を見て,影響されたんだろうね。それと大正6年10月1日の台風による大津波で、14号沿いの建物がほとんど流されてしまった。津波に負けない建物ということで、レンガや石を使ったんだろうと想像される。
由香
 石なし県の話が房州石になり、瀬山邸にまでいってしまいましたね。房州石のほかには、千葉県には石はなかったんですか。

 銚子石があった。
posted by 絢 at 07:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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