2006年07月17日

ゴミは甘藷にどう役立つか


 ここでは江戸時代のゴミの話をしているんだから,現代のゴミといっしょにしないでほしい。当時はどんなゴミがでたと思うかい。
由香
 家庭から出るゴミといえば、食べ物の残りか野菜のくず、それに紙くずに、古着、古いこわれた桶や籠、雑草もあるかもしれない、あとはどんなものがあるかしら。

 工事現場ならどうだろう。
由香
 当時はすべて木と紙と草屋根の家だから、木片に竹、紙くず程度でしょうか。瓦やくぎは貴重品だから、ごみにはしなかったでしょうし、土や石はごみとしては出さないでしょう。

 古着はもめんがほとんどだろうから、こうしてみるとほとんどが植物なんだよ。だから当時のゴミは腐葉土のような肥料になったんだ。
由香
 そうすると、こうしたゴミからできる肥料が,米よりも甘藷の肥料に適していたということでしょうか。

 そのとおりだね。当時は便所からでる糞尿も、ゴミも農家にとっては貴重な肥料源だったんだ。
由香
 しかし、広大な面積で栽培する甘藷の肥料は、大量に必要だったでしょうに。どこから糞尿やゴミを持ってきたんでしょう。

 江戸だよ。甘藷を船に積んで、江戸の問屋に渡すと、帰りの船はカラになる。そこで、江戸の糞尿やゴミをいっぱい積んで戻ってきたんだ。
由香
 江戸時代の港は津と呼ばれたそうですが,このあたりに津があったんですか。

 正式に津と呼ばれたのは、このあたりにはなかったが,谷津,久々田,鷺沼のそれぞれの海岸から、満潮の時に、船が通れる深み、つまり澪(みお)を伝って,江戸へ往復していたんだ。
由香
 そうすると、海岸沿いには、江戸の糞尿とゴミがたくさん置かれていたんですか。

 糞尿はすぐに農家に引き取られていったようだが,ゴミはしばらく海岸に置いたままになっていた。ゴミ河岸といわれ、船を所有する有力者の貴重な財産だった。
由香
 どうしてゴミが貴重な財産だったんですか。

 江戸には、大名の屋敷がたくさんあったから,ゴミの中からお宝が出てくるんだ。特にくぎなどの金属は、お金になった。お宝捜しをした後は、肥料になってゆく。市域の農地の土の中から、泥めんこといわれる子供の遊び道具がたくさん出てくるのも、江戸のゴミや糞尿に混じっていたからだろうね。
由香
 甘藷を江戸へ運ぶようなったのは、天明の大飢饉の後でしょうから,1700年代の終わり頃からでしょうね。いつ頃まで、ゴミ河岸は存在したんでしょうか。

 鉄道で甘藷を運ぶようになったのは、房総鉄道ができて、津田沼駅ができた明治28年からだよ。ただ、最初は船の方が運賃が安かったので,実際は明治40年近くまでは、かなり船が利用され、ゴミ河岸も存在したようだね。その後は次第に、明治43年に複線化された鉄道とトラックに荷物を奪われていった。
由香
 明治40年は1907年ですから,100年以上も、甘藷の特産地として栄えたんでしょうか。

 甘藷自体は栽培が容易だから、津田沼だけでなく、県内全体に産地が広がっていっている。利益を独占したということは全くないよ。この地域全体が、1830年代の天保の大飢饉にも被害を受けることがなく,幕末に全国で多発した一揆や打ちこわしもほとんどなかったのは、甘藷のおかげで経済的に安定していたからだろう。だから幕末に昆陽神社が幕張にできたんだ。
由香
 まえに瀬山邸のときに、甘藷からでんぷんを製造する技術が開発され、明治後期から大正時代にでんぷん御殿が建ったというお話がありましたから,甘藷は通算すると130年間くらいは、地元を潤してくれたといっていいんでしょうか。

 そうだね。昭和に入ると甘藷はいたるところで栽培されるようになり,でんぷんの原料も東南アジアから安い原料が輸入されるようになったので,甘藷の恩恵はほとんどなくなってしまっている。もちろん食料としては役に立っていたが。
由香
 埋立で,今では想像もつきませんが,国道14号のあたりが海岸で、船で甘藷を江戸,東京へ出荷していた時代の建物や遺構は残っていないのでしょうか。

 海岸沿いの建物は大津波で流されてしまって,ほとんど残っていない。
由香
 インド洋の津波のような津波がこのあたりにもあったんですか。
posted by 絢 at 18:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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